こぼれおちたものたち





     ときどきぼくのところには黒い服を着たおじさんが来て話していくんだ。
     背は中くらいだけど、痩せてて、いつも風に吹かれているよう。
     そうだなあ、年はお父さんよりずいぶん上だと思う。
     なんでかっていうとね、お母さんのこと子供みたいに呼ぶんだ、
     「かわいい赤ちゃん」てね。
 

                       春に
 
 「おじさん、なんか音が聞こえない? ドコンドコンって。まるで地面が揺れてるようだ。
  あれ、おじさん、なんか顔が青いよ。さむいの?」

 「坊や、こんな寒い日に固い地面に指を突き刺したことがあるかい。
 まずガシンと力一杯指を突き刺そうとするんだが、固い土には全然入らない。それでもまたガシンと突き刺す。5回、6回。土がはね飛びながら次第に指が突き刺さっていく。そうして指を土に突き刺したまま、その手をぐっと握ろうとすると、急に体の芯に、ズン、というショックが来る。指のつめの間に土が急に入ったのが動くんだ。痛い。というより指先が熱くなる。
 目に涙がにじむ。いや、別に痛いわけじゃないんだ。おじさんは何をしてるんだろうか、って思うとね。
 そのとき、お母さんが叫んだ。『あなた! スミレをどうするの!』」

 「スミレ?」

 「そうなんだ、おじさんが広げて突き刺した5本の指の手のひらの下に、紫色のかわいいスミレが一つ、花開かせていた、ってわけさ」
  
 「それでおじちゃん、どうしちゃったの」

 「坊や、固い地面に突き刺さった指を抜いたことがあるかい。
 指も生きてるんだね、脈打って冷たくなった体を取り戻そうとしてるんだ。
 おじさんは10くらい数を数えた頃、いやもっと早かったかもしれないけどね。おじさんにはそんなにゆっくりの時間に思えた。そうして、指をゆっくりと地面から抜いた。
 そのときだ。
 ドコン! と、おじさんの体の中で血が叫ぶ。
 小さな花に、小さな土くれが跳ねて汚れているんだ。可愛い紫色の小さなスミレの花びらに、小さな泥の汚れが付いているんだよ。茶色く固まった汚らしい土くれがね。
 おじさんは爪の先でそっと払って、言ったよ。ごめんね、ってね。
 じゃあな。元気でな」
 
 




                     5月

 
「おじさん見てごらん、あのカシの木の上! 小鳥だよ、これから飛び立つんだから!
 そら、飛んだ! やったね、あんなに飛んだよ、すごい!
 おじさん知ってる? 5月にはいつも小鳥が大人になるんだ」
 
「そうだ、季節は変わらない。だけど坊や、人は変わっていってしまうんだよ。
 小鳥はああやってすぐに大きくなってしまう。君の好きなあの子猫もすぐに君なんか忘れてしまう。
 人も同じだ。
 昨日は君にいい人だったおばさんも、来年やってきたときはなんか変だな、と思う。
 そして3年経ってまたやってきたとき、おばさんはもう前のおばさんじゃない。
 たぶんおばさん自身は変わってないと思ってるだろう。いやほんのちょっと変わったかな、とは思ってるだろう。
 でも、君にとってはおばさんは、もう、ぜんぜん前のおばさんじゃないんだ。」
 
「わかんない。
 おばさんはおばあさんになっちゃうの?」
 
「いやそうでもないな。だって3年ぽっちだからね。まあちょっとは目のふちとかにシワが見えるかもしれないけどね」 

「えー、でもそんなの変だよ。おばさんはおばさんのままなんだもん。そしたら、おばさんはおばさんだよ。」
 
「そうかな。
 ごらん、おじさんを。おじさんは、君のお父さんとは違ってもおんなじように君にお話をしている。なにもお父さんと違わないぞ。
 人も動物も心なんだよ。心がおんなじなら君には同じお父さんだ。しかし、心が違ってしまえば、、、ああ、そんなもの、誰でもない誰かになってしまう、、、」

「でもおじさんはお父さんじゃないよ。
 お父さんは、ずっと前ぼくを馬に乗せてくれたけど、それは絶対おじさんじゃないよ」

「ああ、そうだな。
 これは一本とられたな。
 そうだ。心を持つ者にとっては。心の中では小鳥は小鳥、心の中では5月は5月、目の前には小鳥が巣立つカシの木がある。たとえこの場所に工場が建ってもな。
 じゃあな、ぼうや。」




「おじさん! 待ってよー! お母さんにクッキー貰ったんだよ! 一緒に食べよう!
 ……ああ、いっちゃった …… 」
 
( いや、聞こえてるよ。
 聞こえてるんだよ、ぼうや。
 ありがとよ )




 
                         雨
                   

 
 「ずいぶん降るねえ。昨日も今日も雨だよ。もうおうちの前の道なんか、車が通ったあとで、大きな溝ができちゃった」

 「そうだな。でもおじさんの生まれた国じゃこんなもんじゃない。今ごろは毎日毎日雨降り。ざあざあのどろどろで、道は洪水。買い物なんか船に乗っていくのさ」

 「えー、うそいってらい。
  おじさん、どしたの、冗談なんか言って、めずらしく気嫌がいいね」

 「ああ、雨が降るとな。おじさんの周りは自然だらけになる。天から落ちる水は坊ややおじさんの体を伝わって地面に落ち道を流れる。川に出て、海にたどり着くためにな。自然はわけへだてすることもなく、木々も鳥もわけのわからない人間も、おじさんと一緒にみんな雨に打たれて体をすくめる。おじさんは自然の中のおじさんだ。
 ちょっとだけ冷たいけどな」

 「ふーん、なんだ、やっぱり明るい話じゃないね。
 ぼくは雨が上がったときのほうが好きだな。小鳥はピイピイいってうれしそうに空に飛び上がるし、樹は風に体を震わせてピカピカ光る雨粒を振り落とすんだ。ぼくもなんだか嬉しくなってくるよ」

 「そうだな。まあ、そうしておくさ。
 おんなじことだがな。
 おじさんは悪いことを忘れる。お前さんは良いことを思い出す。
 じゃあ、その前は、っていうと、おじさんは悪いことさえ忘れれば、良いことしか残らない。お前さんは良いことを思い出さなきゃ楽しくなれない。さて、どっちが幸せかな」

 「なあに? なんていったの?」

 「なんでもないさ。
 そら、この樹の葉っぱ触ってごらん。葉っぱについた雨水が指に伝わってくるだろう。それと一緒に樹の心も伝わってこないか?」

 「あれ、ほんとだ。
  樹がいつも雨のほうがいいって言ってるや。それで悪いことが忘れられるんなら、って」
 
 「こりゃどうも、だ。おじさんもからかわれたか。でもな、人間には言葉をしゃべる生き物のほうが合うのさ。
  坊や、お前さんと会ってどれくらい経った?」

 「うーん、、、去年だよね、1年くらいじゃない? お母さんが駆けて迎えに出てったっけ。もう家の前の雪は溶けてたよ」

 「そうか、心は時間に溶けるさ。このぬかるみの道のようにな。永遠の時間を持てる者などそれだけで独りぼっちだ。じゃあな、坊や」
 
 





                          夏の夕



「こんばんは」

「よお、坊主、どうしたい? 今時分。
 そういやあ、お前、おじさんちなんか知ってたっけ?」
 
「ここんとこおじさん来ないから、お母さんがこれ持ってって。おじさんなにしてんの? すごくお酒くさい」

「そりゃそうさ、お前のおじさんはお酒をお召しになってんだからさ。暑くて仕事をする気にならん。
 ほお、すごいなあ、牛肉じゃないか。よし、ちょっと待ってろ。今おじさんがおいしい焼肉を作ってやるから」
 
「いいよ。おじさんはどうせそう言って全部お前にくれちゃうから、渡したらすぐに帰っておいで、って、お母さんが」
 
「ちェッちェッちェッだ。男の子はお母さんのいうことなんかきいてちゃいけないぞ。お母さんは言うことをきくもんじゃなくて守ってやるもんなんだぞ」

「えー、そんなこといったって」

「いいか、坊主、お前とお母さんが狼に襲われたら、お母さんはお前に逃げろ、というだろ? まあ、難しいことだからな、答えなくていい。とにかくお母さんはそういうんだ。そこで、坊主、お前が逃げたらお母さんは狼に食われちまう。
 じゃあどうする? お前は狼と闘わなきゃいけない、お母さんの言うことなんかきかないでな。
 まあ、そうしたくないならそれでもいいがな。
 そんな顔をするな。お前はまだ赤ちゃんだから、そうしろと言ってるんじゃない。ただ、世の中というのはそういうものだと言ってるんだ。
 そら、肉が焼けたぞ。生肉は凍った肉と違ってあぶるだけでいい。まあお食べ。おじさん秘伝のタレ付きだぞ」
 
「へえ、なあに、これ。甘くて酸っぱい」

「マーマレードといってな、黄色い果物と砂糖をまぜたものさ」

「ふーん、おじさんて物知りだよね」

「まあな、長生きすると悪いことだけじゃなくていいことも知ることができる。だからいいってわけじゃないがな。それも必要なことさ。お前も色々と自分の頭で考えることだ」

「うん、ぼく勉強してお医者さんになるんだ。みんなが死なないように病気を直してあげるんだ」

「ああ、それもいい。ちょっと金がかかるけどな。
 だがな、それよりもっと大事なことは幸せに死ぬことなんだよ。お医者さんていうのは死なないようにするんじゃなくて不幸な死をなくすのがお仕事なんだ。わかんないだろうがな」
 
「えー、わかんないよ、そんなの。死んだらみんな悲しいよ」

「そうだよな。死んだらみんな悲しいからな。でもな、人間で一番大事なことは、不幸な死をなくすことなんだ。お医者さんもな、羊飼いの人もな、工場の人もな、仲間や家族や自分が不幸にならないようにがんばってるんだ。いったい他に何がいるんだ?
 、、、難しすぎるな。酔っ払ったかな。
 肉食べたらこれを持ってお行き。マーマレードの瓶詰めだ。じゃあな」







                          晩夏の夕
    
            

「こんばんわー」

「やあ、坊やか、どうしたい?」

「あれ、おじさん、今日はお酒飲んでないの?」

「そうそう毎日飲んでられるもんかね、この暑い時期にだらだらしてたら人間死んでしまうさ。まあそれも右に行くか、左に行くか、というだけのことだけどな」

「おじさん、それなあに? 写真?」

「そうさ」

「それおじさんの子供?」

「失敬なことを言うな。これはOといって21才で死んじゃったやつさ。こっちはNといって26で死んじゃった子だ」

「えー、みんな死んじゃったの」

「そうさ。みんないいやつだったからな」

「じゃあ、みんなお空にいるんだね」

「お空? ああそうか、この辺じゃ死ぬと空に上るんだっけな。そうだな、夏のお空の白い雲うちの2つはあいつらだろうな。
 そんなことよりなんか用かい?」
 
「これ見て、僕が作ったんだよ」

「なんだい? ほう、矢じりじゃないか。なかなかうまいな、きちんと刃が出てる」

「うん、これで矢を作ってオオカミをやっつけんだ」

「オオカミ? ウーン。それはまずい。おじさんのせいだな。わかった、あやまる。取り消しだ。おじさんが悪かった。その矢じりは15歳まで使わないって約束してくれ」

「えー、なんでえ? 僕はオオカミをやっつけてお母さんを守るんだ。」

「だからわかったって。わかったからあやまってるじゃないか。人があやまったら許してやるものだ。 おい、どこいくんだ、戻っといで!」






 










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