今回のトピック




 いよいよ今年も終わりで、4月から再開した『今月の話題』、改め《今回のトピック》も、もう9回目。これで最後かな。(て、05年暮れのこと)
 1年続くのもねえと思いながらやってきましたが、まあねえ。ブログじゃないんで、こんなふうに上書きすると、今年1年のことが消えちゃうのがさみしい。ろくなこともなかったとはいえ。

 うーん、この文の短さもさみしいね。



 今回は、ま、後書きです。




【戦後イデオロギーの構制】
 
権力に乗っかる者とアナーキストと
 

 最後のおまけは戦後主体性論である。
 というよりも、梅本克巳である、といったほうがよいかもしれない。実は早稲田の古本屋街で650円で手に入れたのだ。
 
梅本克巳「唯物論と主体性」現代思潮社、1974
(先に、対馬忠行の本を紹介したときに変だと思ったのだが、この「1974」年は、新装版の年のようだ。)

 まことにこんなものがよく売れたな、と思うほどだが、こちらも売れた理由もわかる時代に生きていたからしょうがない。
 この本はいくつかの断片、よくいえば節立てからなっているが、だらだらと桝目を埋めるばかりで引用転記をする気が起こらない。
 とりあえず、巻頭の2節などを中心にみていることだけお断りしておくに止める。

1 再度、梅本克巳

 まず第1にここにあるのは、資本主義社会での人格は、分解された利己的な個人でできている、という認識だ。
 第2に、それじゃだめだから道徳的に再統一が必要だ、という認識である。
 第3に、歴史的必然に身を投ずる人間が「自由」なのだ、というソフィスト学(もっともらしいウソつき)である。
(『人間的自由の限界』)
 第4に全体と個人の分裂であり、第5にそれを統一する、全体に献身する共産主義者たる存在である。
(『唯物論と人間』)

 解読すれば、戦前の「半封建的」とさえ表現される共同体の中で長年住んできた人間が、農地改革=農民解放に表現される資本主義的民主主義の怒涛のような流入に耐えかねて泣き言をいう、の図である。
 何が「分解された利己的な」個人か。そんなに「支配された利己的な百姓」がよいのか。そんなものは地主の息子か医者の息子達の世迷言にすぎない。自分に見返りのある隣人しか眼中にない百姓の方がよっぽど利己的ではないか。
 何が道徳的な再統一か。そんなことを強制したがる人間のことを、生活大衆は「直感的に」スターリニストと呼ぶ。しかし、戦前育ったイデオローグ(イデオロギーを宣伝する人)とは、すべて、他者に説教することで自己の満足を得てきたのだ。
 何が「歴史的必然に身を投ずる」か。そんなものに身を投じなくとも、私が明らかにしたように歴史は必然だ。そして、彼らがのたまったようには、歴史は全然必然ではないのはごらんの通りだ。死んでしまえば自分が何を言ったか忘れるだろうが、恥を忍んで生きている人間に恥ずかしいと思え。
 何が全体と個人を統一する共産主義者か。誰のことだね、固有名詞を挙げてくれたまえ。
 ああ、答えも出さずに死んじまってまことに残念なことだ。
 
 だいたい、戦後主体性論などというからかっこいいが(いいか?)、なんでも「中学、高校時代に頭に刻み込んだ人格主義思想やカント哲学とマルクス・レーニン主義との矛盾で悩んだ結果、共産党東大細胞内で「主体性論争」を提起した」渡邉某という人もあるそうだ。人格主義とマルクス主義が一緒になるかよ。

 中には人間の認識は感性的なものから理性的なものへ進むなどと、1節を挙げて展開したものもある。
(『実践論』。ま、梅本だけに悪口を言うには流行りすぎた言葉だけどね)
 バカいっちゃあいけねえよ。
 そりゃ、「人間には思い返すという過程がある」という事実の差別表現なのだよ。
 大体、人間の行為は反射運動に見えてそうでもないのだが、まあ、それは置くとして、たまに思考が意識化されることを、抽象的だとか理論的だとか大げさに言われては困る。
 でも、なんでそんなスローガンがはびこったのか。
 技術で優勢を誇った野蛮な西欧権力者達は、言葉も通じない自国の田舎百姓たちを強奪支配し、さらにキリスト教を武器として、きそって「感性しかない」未開地を侵略し、「教化」していった、このイデオロギーが「感性から理性へ」なのだ。
 そして同様に、この未開→侵略のイデオロギーは屈折し日本化し、「チャンコロ」中国、「バカでもチョンでも」朝鮮、その他アジア諸地域の侵略イデオロギーとなったのである。にもかかわらず無反省にてめえのインテリ経歴をひけらかすボルシェビキ。というよりも自分がそれで食ってることを反省もしない「戦後主体性論者」。
 彼は自分の言がイデオロギーであることも知っている確信犯だ。
(『史的唯物論における原因と動機』その他)
 こんな時代の制約に無邪気に、それがどうした、と開き直る態度は、いずれ権力主義者、要は権力は自分の手にあると誤解しているボルシェビキの手先にしか考えられないことだ。
 まさに、戦後主体性論は、こうしたロートルを乗り越えて60年代後半に思想的高地へ達するのだが。


2 倫理イデオロギー

 などなど。しかし、本稿は別に梅本を批判するためのものではない。
 およそ、倫理の形式をとろうが、イデオロギーは、時代のものだ、ということをまず示すことにある。倫理家梅本にケチをつけるつもりはないが、イデオローグ梅本など生き残る必要はない。
 私は「倫理」は個人のものであることを、既に第1回に述べた。それは個人の生きる方法のことだ。
 そしてここにあるのは「倫理」ではない。「倫理イデオロギー」だ。ある行為規範を他人に押し付けるための「イデオロギー」だ。
 それは、その時代時代によって違う。イデオロギーの評価は「正しさ」の問題ではない。

 ポイントは次の点である。
 およそイデオロギーは、他人の規制のための表現であるから、権力の行使が伴わなければ意味がない。あるいは、権力を行使できる者のみが表明する権利がある。これは褒めているのではなく、イデオロギーをくっちゃべっている人間には、全員用心しろということだ。
 たかだかの評論家が「自分の」イデオロギーを出版できるのは、それが支配権力か、支配権力へ対抗する権力に、合致しているためである。

 対抗権力のできることは、このように時代の権力的残滓(カス)に乗っかることなのだが、支配権力は(それに気がついてしまえば)基本的に自由自在に自分の好きなことをしゃべることができる。世間は後からついてきてくれるのだ。

 このように倫理イデオロギーは、権力による行為の制約がどう働いているかによるのであり、今般の若者の無倫理、ないし、ネットワーカー得意の差別かたらいのごとき権力の糞のような言動は、右翼の諸君の主張のように、ひとえに親や教師の「自由」のもたらしたものではある。直接的な差別発現ほど簡単に他人に権力を行使できるものはない。
 もっとも、問題は、右翼の諸君の主張のように、だから国家のために人殺しをして平然としている人間を育てることではない。
 私と彼と彼女の、個人のその自由を保持しつつ、どう「善」を実現するかどうか、ということなのだ。


3 人間の「善」

 そして、本稿の主題はこれだ。
 人間には「真」があり「美」があるように、「善」もある。
 善は人間が行為する際に「制約として守らなければならない何か」ではない。
「なければならない」という他者への制約的態度は、イデオロギーにすぎない。
 そうではなくて、善とは、個人がその個人の行き方の道筋、すなわち本当の倫理を形作る際に、倫理の制作基準となる、過去2000年の人間には該当するはずの社会交渉的事実を指す。
 人間の「善」とは何か。
 それは、人間の感動の対象となる諸行為だ。
 人は、クリスマス映画「34丁目の奇跡」を見て涙を流す。あるいは「キングコング」を見て感動する。その感動の基となる諸行為が、人間の善だ。
 その善を基準として、それぞれの生活において、自分の行為体系を形作ることが「本当の倫理」なのだ。
 なにも具体的な善の内容をここに列挙する必要もない、それは誰でもが知っている普遍的な事実だ。多少の個体的偏差、個人による感動の幅の違いはあるだろうが、マルクス主義的資本主義的経済原理が資本主義の世に普遍的に妥当するのと同様、それは、人間の普遍的な機制だ。
 
 食い物を汗水垂らして手に入れ、これをカネに替え他人よりたくさん銀行に保存し、そして成人病で死ぬ人間が、自分の生に満足しているわけではない。
 人は、生きててよかった、と思うために生きる。衣食住が足りたあと、あるいは足りている最中、次に探すものが、真善美であり、生きている間は、人は「生きていてよかった」と思うためにこれを探す。部屋に花を飾る。子供にお土産を買う。そして満足して死ぬ。人の倫理は、そのためにある。人間の、どこに存在している誰にでも、「部屋」と「花」があるように。どんな子供でも、もう泣くことなどないように。
 ただ、それは他人に主張するものではない。自分一人の生き方を作る時の基準にすぎない。
 倫理とは、だれそれに余計なお世話で教えてもらうものではない。ましてや、支配権力やら革命勢力やらによって押し付けられるものでは全くない。当たり前だ。倫理は個人だけのものだ。
 そして、本当の倫理の内実は、この普遍的な人間の機制に則った、それぞれが持つ不変的な普遍的な行為基準なのだ。

 すべての押し付けは、権力を前提とする。
 権力に寄生する情けない事大主義者たち。おためごかしの国家主義者たち。とりえはそれでも人間だ、ということだけだ。
 国家権力を忌避し、組織権力を忌避し、しかし一人である人間の魂を信じ、そしてアナーキストとは、この人間の普遍的な行為基準を信ずる者のことを指す。








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【この文を読むための参考】
行為の原理と原則


 えー、というわけで、この文は、私、隈の社会学の一部ということで、すでにみなさんがある程度私の理論をご存知でないと読みづらくなっております。
 で、例によりまして、隈行為論の中核たるべき(?)前からの読者にはおなじみの例の行為の原理・原則について、ここで、簡単に行為論の基礎を引用しておきたいと思います。
 なにしろいつものコピーですから、前からの読者の方はご覧になる必要はありません。


 ‥‥‥‥
 人間が行為をする際に不可欠な、個人の主体的な行動の原理・原則をあげておく。
 第1に〈状況の認知の原理〉
 人間は、現在の自分の状況と将来の状態へ移行する手段とを認知しなければ、反射運動以上の行為をすることはできない。
 これは優柔不断な人間や計算高い人間だけがすることのように受け取られそうだが、そうではなくて、どんな単純素朴な人間(や他の動物)のどんな行為にでも、不可欠なことだ。酔っぱらってビール瓶で殴りかかるような奴でさえ、自分が酒場にいることを認知しており、一瞬の間に、自分の前にビール瓶があることと自分が以前に殴る動作をしたときのイメージと、自分の相手が負けるイメージとが、将来のイメージとして神経組織を走るはずだ。
 (もっともここで〈イメージ〉というのは、心に浮かぶ「イメージ」の根底にある作用のことで、現実には心に浮かぶ間もなく神経細胞を走り去っているかもしれない。)
 つまり簡単に言えば、人は自分がこうすれば相手がどうなるかを(誤解やマチガイはあるが)心の底で知って行為する。
 第2に〈将来感覚の認知の原理〉   
 人間は行動する前に、かならずその行動を現実にしたときの自分を感覚してから行動するものだ。
 人間の反射運動を除いたすべての行為は、頭の中で処理されるスピードにこそ違いがあるが、この将来の感覚を媒介として(多くの場合はイメージを現象させつつ)成立している。
 さっきの酔っぱらいも、相手が負けたときの快感を認知して(予想的)期待とともに殴るわけだ。(もっともアルコールの作用もあるし、どこまで深く認知しているかは別だが。)
 簡単に言えば、人は自分がこうしたときの自分の状況を心の底で知って行為する。
 第3に〈確認の原理〉
 人間は行為し終わった後に、その行為がどんな結果をもたらしたかを確認する。
 これは、他の原理と違って、いつも生ずるというと言いすぎだ。でも、人間が生き続けるにはある行為を別の場所でも適合するように修正して再使用していかなければならないわけだが、この意識的な行為の成立には不可欠なプロセスだ。
 相手が血を流して倒れていたのを確認したら、次の機会にビール瓶を手に持ったときに神経組織を走るイメージが異なるだろう。(それが快感で病みつきになるかもしれない。)
 簡単に言えば、人は自分がしたこと結果を知らないと満足しない。もっとも忙しい現代、「こうなったはずだ」と信じて次の行動に移ることも多いが。

   人間行為の原則

 これらの原理をもった行動の中で、人間が何かの行動の選択を行なう際の原則をまとめよう。
 第1に〈論理性の原則〉
 人間は、たとえ子供でも、つじつまの合わない行動はしない。そもそも「考える」という行為は論理の道筋を必ず持っており、「考えて」する以上は、必ず何らかの意味で論理的な行為の選択だ。更にこの「論理」とは、以前に自分が行為した経験と今の状況との間で、どこが同一か(同定の原則)、を高速にイメージすることだ。
 つまり、人は行為をするときは、自分の経験を通して、こうなる「はずだから」として考える。
 第2に〈好悪の原則〉
 人間は「好き嫌い」によって行為の選択をする。
 これは別に愛情の有無をさすわけじゃない。人間が生物学的な存在であるところから、すべての行為について生理的な判断として「好悪」があり、この生理的な感覚が積み重なって、複雑な好悪判断がなされる。
 つまり、人は、較べてみて、より好きなことをする。
 第3に〈経験の将来感覚の原則〉
 今述べた〈好悪〉は、具体的には、自分が過去に経験した生理的感覚の直接の記憶によって判断される。山に登って得た快感は、人に「僕は山が好きだ」と思わせる。
 ところで、この「山に登れば快感がある」という認知は、この快感の記憶とは別に、生理的快感の存在する場所として「よかった」イメージ、「うまくいった」イメージを保存させる。そして、自分と快感との関係を保存したこのイメージは、後になって別の行為の判断の際に刺激され、使用される。
 たとえば、山を削って道路を作る計画は、先に得た快感関係のイメージを刺激し、僕はこの計画に反対するだろう。(これは、僕が「山を好きだ」からではなくて(山には「性」もないし一般的に僕に対して対応をもつ主体でもない)過去の山との関係の認知を刺激するからだ。)
 「価値判断」と呼ばれる判断は、この好悪によって判断された経験上の記憶のイメージによるものだ。
 つまり、人の快感は具体的なモノにくっついて残る。そのモノは快感を呼ぶものとして人には大切なものになる。
 第4に〈優越的自由の原則〉
 人間は、行為の完成、つまり、一連の行為の流れを自己の意思のままに経験できたときに、自己の行為に満足を覚える。
 そのため、この行為を邪魔されずに自己の自由の下に行なえる担保として、他者に負けないことないし優越していることを望む。
 これは、日常的には最も重要な選択原則だ。
 要は、人は自分の好きなようにしたい。
 第5に〈賞賛(ー規制)の原則〉

 人間は、他人から教育されて初めて一人で生存できる人間となれる。そこから、人に賞められることを望み、かつ、そのためのひとからの規制を甘受する、というより内在化する心的機構を持たざるをえない。
 これは幼少期には重要な選択原則となる。ある年令の子供は(他の問題がなければ)人に賞められるように行動を選択する。
 また、潜在的には、大人になってもいわゆる「自我」として重要な感覚を形成する。
 要は、人は誰かに褒められたい。

   人間の自発性

 これら原理と原則は、いわば人間の環境的事情、人間が行為する際に受動的に神経活動を行うときの諸側面だ。人間の存在それ自体を考える際には、これら以外に、これらの環境性を身につける人間自身の問題を一つ考慮に入れなければならない。
 つまり、人間の自発的事情、身体的な諸要請(欲求)と、身体性に裏付けられた行為の自由だ。人間は、生物学的個体として自己の生存を自分で確保していかなければならない。当然至極のことだけど、指摘だけしておく。

 さて、行為の原理・原則はこれだけだ。重要な点は、ここでは誰にでも思い当たる当り前のことを羅列しているわけではなくて、「これだけだ」と主張している点だ。以下の行論でもこれ以上の素材は使わないし、その必要がない。
 人間は、これらの原理原則の下で、自己のある行為の完成を求めて行為する。従って、行為の本来は個人の自由であり、種々の後発的環境的制限からの解放への志向だ。
 もう少し簡単に言えば、人は好き勝手なことをしたい。もっとも、都会の人間が砂漠の真ん中で「さあここならお前は自由だ。好き勝手にしろ」といってもふつう楽しくはない。人は、環境によるいろいろな制約の中で、自分の認知に沿って思い通りの行為ができたとき、生理的に満足する。 ‥‥‥‥




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