今回のトピック総集編 

その2

こちらは「その2」です。長いと扱いにくいので。







【社会システムとプロレタリア独裁】
  大審問官とスターリニズム(その1)

【権力の行使と制約】
  大審問官とスターリニズム(その2)

【資本主義の腐朽と世界変革】
   (結語に代えて)
  





【社会システムとプロレタリア独裁】
  大審問官とスターリニズム(その1)

 のっけからひどい題ですね。
 暑さとかって嫌いですし。(どんな意味だ)ただ、こんなのとっとくのもやだな。
 
 
1 社会システムとは何か

 本来、行為者個人にとって、社会システムとは不可視である。
 我々すべての人間は、個別、眼前の行為しか行わない。
 警官は眼前の泥棒しか捕まえず、首相は眼前の国会に出席するのみである。証券マンは株を売りつけるのみ、農家は米を作るのみだ。
 1億国民が自分の眼前のことしかしない。しかし、資本主義日本は今日も規制的に動いていく。
 
 それがシステムだというわけだが、今回はそこに今一歩立ち入る。

(1)生理的消費
 まずは、これら個人行為とシステムを繋ぐものは、生理的消費であることを確認する。

 我々は、メシを食うために働く。
 もしもメシが、証券会社でなく、守護大名しかくれない社会であれば、なんとか大名に使われる雑兵になろうとするだろう。
 しかしこの社会の飯の種は資本主義的商品経済が仕切っている。
 従って、われわれは、資本主義的利潤に仕えることで生き長らえ、人は、資本主義利潤の入手方式を確認することで社会のシステムを見ることができる。
 もちろん、まだ仕切るほどには強くない石垣島で暮らすこともできる。社会にはそうしたタイムラグなり地域ラグなりが存在する。これは重要なポイントではある。がそれはほんのわずかな領域だということだ。
 もう終わり。とてもシンプル。
 
(2)権力(武力)の介入
 ついで、システムとは、生産と対他者規制権力の「時期的必要」の結果であることを確認する。

 資本主義的利潤獲得を行為する人間が、株を売りたい必要によって、株屋が生ずる。株屋が生ずれば、株を組織的に扱う会社が勝利する。その会社の勝利は、一時的であり、その他の金融商品の必要に応じて証券会社はその転変を生ぜざるを得ない。
 ここで、ポイントは、時々の利潤入手をめぐる社会的必要は「時期的」なものだ、ということだ。
 本来この「時期」性は、自然的要因、すなわち、気象・地学的条件、あるいは偶然的な(人間による)生産力向上の発見である。
 それ以外は、個人の自由を求める過程への(社会による)許可の条件である。
 
a. 個人が認知する権力状況
 まず、社会による個人への優越の設定が何か、賞賛の設定が何か、すなわち、それらを許している権力状況の問題である。
 悪質リフォーム会社は社員にウソをつく訓練をさせ、老人からカネをせしめる。これは、30年前には必要ではない。しかし、現在は必要だ。
 (何もここまでいわなくてもよいのだが、社会の科学は、最極端を語るべきである。
 概要として正しいことなど、社会科学従事者には、分かりきっていることだ。そのアバウトさのどこが本当の規定であり、一般敷衍して行為者個人が使用できるものなのか、ということである。)
 この定式において、会社権力への対抗権力のなさ、倫理的賞賛のなさ、これが彼らニッチの存在を不可避とする。あるいは、積極的に、社会に現象させる、といってよい。

b.諸権力の関連
 ついで、権力関連自体は、当時の共同性の様相で決定される。
 たとえば、資本主義社会はすでに100年間同様の生産関係的規定因を持っている。
 しかし、一方、共同体の規制という規定因の変更を持っている。
 資本主義的規定因は、直接には、利潤の増減であり、共同体的規制の変更を生産関係の包括性が規定する。
 共同体規制の現象的表現は、共同体階梯ない個人の(立場交換の成否の)様相となる。
 
 たとえば、日常生活を送る大衆には区別のつかないいくつかの左翼党派の塊は、日常的大衆の行為に、すなわち彼らの通常の権力関連から外れた局面の存在理由に、まず、決定される。
 彼らが国政選挙に出て当選するほどの集団であれば、日常的大衆はいくつかの特徴点を見出すだろう。
 特徴点とは、要するに、そこに大衆が、すなわち被選挙者本人たちが、行為の将来を見出す点である。
 すなわち、システムは、透視はできないが、把握はできるのだ。
(現象的にはもちろんこれは、逆転していて、行為の将来の総体がシステムなのだが、しかし、それは現象なのであって、彼らをそこに追いやるものがシステムの本体なのだ。正しく言えば、そう規定し得ないものは人間にとっての科学ではないのだ。)
 一方、国政選挙に関連しない左翼集団の塊は、選挙に関わらないが行為の将来を見出しうる人間にとって(のみ)意味がある。すなわちそんな将来が、システムに存在する。

c. 優越権力による権力の分配
 逆のこのアモルフな、改革運動にもならない諸行動が存在するのも権力と生産関係の仕業だ。
 国家権力がもしも自分の権力の削って、諸個人に分け与えれば彼らは喜んで、自分の自由を国家に売り渡すだろう。
 個人行為の自由は、彼自身の思想ではなく彼自身の具体的行為の将来の実現だからだ。

 もちろん、そうでない個人の、日本人でもいるさ。10万人に一人だけど。
 そういうやつは、残念ながらもともと権力とは関わらない回路でなければ生きていない。つまり彼らは存在するが、存在するという限りにおいて、権力とは関わりえない社会的位置にある。
 どうでもいいが、要は、国家権力は個人に一部の権力を渡してやれば、個人たちはホイホイ言うことを聞くということだ。
 こういうのは、常識。社会学者はせいぜい実証してくれたまえ。くだらん。周りをみればわかることだ。彼や彼や彼女のことさ。

 
2 システムとは、何だ、と表現するか

 個々の規制については、生産関係その他の要因がその規定性を説明する。
 しかし、ではその全体像をどう把握できるのか、といえば、それは別の問題だ。
 それは、傍観者的(テオリア的)把握、また概念的把握(という学的把握)にならざるを得ない。そこには変革の具体的契機は存在しない。
 (多くのマルクス関係者には誤解があるだろうが、「概念的把握」とは決して実践につながるものではない。展開するのもどうでもいいことなのでやめておくが)
 すなわち、実際に全体としてどんな規制が生じているのか、全体システムがどんなものか、については、「事後的に」観照されるほかはない。
 これは、「現状分析」(という言葉が的確だとは思わないが)の問題である。

 動的理論において重要なのは、システムそのものではなく、システムを貫く規定因である。
 把握した観照世界から、実践的に抜け出す方法は、この規定因の動向の把握であり、また、この規定因の操作である。

 まずは、資本主義的生理的消費の世界には、労働者に矛盾が生ずる。これにより、資本家にも矛盾が生ずる。偉大なマルクス(エンゲルス)以降、社会科学はつい25年前まで一歩も前進していなかった。
 簡単に跡付ければ、矛盾とは、どうあがいても解決策が出ない状況、を指す。
 良心的な人間には「二律背反」といって、あちらを立てればこちらが立たず。、というものだが、そういう主観的な問題ではない。悪心的な人物にとっても、自分の身を守るのにも疲れて「だれかどうにかしてくれよ」という状態を指す。
 たとえば、爛熟した生産力の下で、全労働者が生産に従事するには、パートタイム化せざるをえない。しかし、それでは一人分の賃金が減る。
 ここで、階級社会においては、その欄熟性を享受する一部金持ちを射程に置かざるをえない商品宣伝と文化によって、パートタイマーは「極貧」化せざるをえない。まあ、現在の日本で、200万円の収入で家族を支えるのは「極貧」とよんでもよかろう。もっとも、アフリカを見ればどうという収入でもないが、行為者は自分の次の将来をイメージするのであって、自分の5分先の将来にはアフリカなどない。では、さて、われわれ労働者は、どんな未来を作ったらいいか、という問題だ。
 もちろん悪心の資本家や資本家の手先は、そんな矛盾を心に留めることもなく、自分達を除いた人間のパートタイマー化を望めばいいわけだが、そこで生ずる労働運動の激化と、「夢想でしかない理想社会のデマゴギーの蔓延」による軍部による資本家への攻撃という両方面からのテロリズムへの対応は、十分資本家を疲労させる。
 この矛盾の解決は、痛みなくしてできるものではない。その痛みも別に残念とも思わない(=ざまあみろさ)のが、この矛盾の激化というものだ。
 かくて、大審問官である。
  

3 社会システムと革命

(1)闘争主体について

a. 反逆当事者

 社会関係の中での行為は、賞賛と事実認知によって、社会に指定される。
(これを第三者的に拘束的部分を見ると『社会的拘束』という言葉がうまれる。行為の将来の想定の範囲、これが指定されていることを、社会的拘束性と呼ぶのだ。)
 経済的局面においては、利潤等の利益の獲得と生産手段所有者への服従経路が指定され、政治的局面すなわち権力的側面においては、引き続く権力者によって、権力配分について指定される。

 たとえば、ロシア農奴の解放闘争が、悲惨な敗北に終わったのは、農奴を囲む社会関係者に、新たな社会的指定が生まれていないことによる、と、表現するのが、事実をわかりやすく認識する仕方である。

 農奴はなぜ孤立するか。これを伝え聞いた人々が、他人事だからだ。
 さらに、これを抑圧する地主に雇われる人間や、地主とつるんだ国家権力の手先が、他人事だからだ。
 だれが、自分の親を、兄弟を、鞭や棒切れで殴り殺して喜んでいられるか。そんなものは一部マルキストしかいない。
 要は、農奴と他の人民との共同性の成立。
 また、抑圧勢力内部における武力行使者と利益享受者との共同性の成立の(なさ)なのだ。
 まあ、それに追加する事項もあるが。

b. 若年層

 権力を目指す学生等の若年層は、権力と対抗権力の2通りの権力を選択できる。
(生理性の獲得に選択性のない)世襲的生理性の社会にあっては、単なる地位と、武芸、その他の諸芸。
 生理性の獲得に、選択的制限のある、変革移行期にあっては、選択的権力を獲得できない諸若者は、獲得できる少数の若者との共同性がもたらす「権利」意識、同等性の意識において、対抗的権力を視野に入れる。
 対抗的権力は、すでに、先人において、眼前化させられているわけである。
 人はこれを若者の正義感、その他と呼ぶが、すべて、観念的自己の将来は、事実認知による。
 それではこの場合の現実的認知は何かというと、実は正義感それ自体は、実際に正義である少数の抑圧者による社会運動である。

c. 軍

 革命は、武力の発動を条件とする。
 会社員は明日も会社で同様の営業活動ができる事態を革命とは呼ばない。公務員は昨日と同じ公務をすることを革命とは呼ばない。
 それら日常の行為を阻んで、かつ、それへの抵抗を許さない事態、すなわち武力が発動される事態が革命なのだ。
 たとえば武力を発動できる小泉が、明日革命を起こすことも可能だ。もちろんこれをクーデターと呼んでも良いが、小泉が現政権のボスなのだから、分類上は革命だろう。
 名称はどうでもよいが、それには現在休眠している武力性を呼び起こす必要がある。
 警察隊はいけない。彼らの賞賛は秩序の安寧にある。

 では、自衛隊が政権につく可能性は何か、ということになる。
 まず第1に、憲法9条の改定による自衛隊の、それ自体としての,賞賛等の回復である。そのとき彼らは、自分の行為で国民の賞賛を稼げることを認識し、喜んで警察隊と射ち合うであろう。
(これ以上は右翼も聞いているので秘密だが、武力の発動は、武力に国民の賞賛を結合させることが条件とする。いつか、自分が変更した第9条の呪いにより、革命政権の手で処刑させられる元首相があっても、私のせいではない。)


(2)武力と革命

 ということは、武力権力を明渡す理由がなんであれ、武力を握ってしまえばこっちのものだ、とも聞こえるが、そうでもない。
 ここでの規定性は、
1 武力を明渡す「誤解」
2 握った「こっち」がいく方向
の2点である。

 いわば、武力上の「勝利」は、一時的に生じはする。しかし、次の瞬間には、反撃する勢力に「敗北」する。たとえば、1950年、「北ベトナム」の独立宣言以後、1975年と一般にはいわれるベトナム戦争の結末はどこで判断するか。というような問題だ。
 武力上の政策転換も一時的に生じさせることができる。
 1920年以後、第二次世界大戦までの混乱期、「たかだか」20年にも満たない期間の混乱は、武力のみでも生じさせることができよう。
 社会物理学的にいえば社会の「安定」、均衡理論的にいえば社会の「均衡」がそれにあたるのだろうが、そんなものは口説の徒の言だ。何をもって安定といい均衡というのか。彼らには「変化が緩慢になったから」それ以上の判断材料などありはしない。

 本来はそうではない。
 人民の生理性、優越、賞賛。それらの確保によって社会の変化は緩慢化する。それが武力の闘いの終結である。
 ここで私がなにを言ったかというと、もとはといえば、武力の対決も、それら行為の原則の対決以外にはありえない、と言ったのだ。

 たとえば、ロシア革命は資料が少ないので、明治維新を見る。
 明治維新においては、全武士たる利害はなく、藩別の利害、組織たる藩の利害、組織過程上の個別利害しかなかった。そこでの矛盾は、藩経営層における財政逼迫、豪農・(大)商人層の嫌気として顕在化したといってよいだろう。
 もちろん商品生産は、これに付随する工業者、運輸者へのカネの供給、(=食料等必須品の供給)を不可避とし、寄生虫階級の独り占めに反抗する。この反抗の成就は、行為論上は、賞賛等の削減を意味する。
 それらの表現は「世直し」という将来の自由の夢であり、その実践者は下層武士であった。 
 江戸末期、下層武士は、忠義的賞賛・優越の必要のない時代、それとは別の将来イメージが供給されている時代にあっては、学生のようなものである。

(なお、最近はガキの間でも、右翼の歴史評論家の言を真に受けて、「江戸時代は人民は自由だった」などというのが流行っている。民主主義をバカにしたように、成績の悪いガキたちは左翼をバカにすることで社会の優越を感ずるわけだが、
 高校の歴史の教師は何をやっているのだ。どうして「江戸時代は270年続いた」という事実を教えないのか。
 人民にも自由が生じ始めた19世紀など70年しかないのだ。)

 本当のことをいえば、別に「武力的制圧が必要」なのではない。
 武力は、存在さえすれば、あとは必要なのは、「武力はこちらを向いたぞ」という単なる表現だけなのだ。
 このことは、ブルジョワ革命が議会を制圧するのと本質的に同様である。
 これは、「人に見えるのは、自分が構成した世界だけだ」ということだ。
 革命とは、権力の掌握ではなくて、武力をもっていかに制度を自由にするか、ということだ。
 武力を恣意どおりに行使するのは通常の制度の中では権力者にさえできない。これをどうすれば行使できるか、この時代的表現に過ぎないのだ。
 人民は、現在自分を束縛している諸物への不満の表明の可能度、すなわち、自由への将来の(間違っているかもしれないだけの)方途さえ見つかればいいのだ。

 政治革命は、食糧暴動ではない。
 もともと生理性に関係はしてもこれを自分の行為の将来とするものではないのだ。生理性がないということは、武力行使で賞賛等を得られない人間は武力行使に加担する必要はない、ということだ。
 もちろん、特徴的に、ほとんどパーソナリティのレベルから武力行使に快感等を感ずる層はいるだろう。仲間うちでの名誉が大切な境遇もある。彼らは武力行使を行い、その他の人間にとっては、一片の花びらと化せる。たとえば上野、彰義隊。


4 プロレタリア独裁

(1) プロレタリア独裁とは何か

 まあ革命なんてよいものではないが、起こすのは小泉ら戦争主義者の諸君だ。私のせいではない。その後の話題になる。
 一部博物館行きの人間にしかウケなくなった「プロレタリア独裁」の理屈とは何か、だ。
 例によってネット知識をたどろう。こういうどうでもいいことを金も手間もかけずに共有できるようになるとは、まったく便利になったものだ。
 
a.『独裁』

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
『独裁政治(どくさいせいじ、dictatorship)とは、政治権力が一人または少数の為政者へ無制限に集中している政治体制を言う。
 戦争や内乱などの非常事態において、法的手続きを取らずに独裁官に支配権を与える古代ローマの統治方法に由来する。』

『独裁政治の歴史
 古代ローマでは、元老院議員による腐敗政治が横行した「評議会」に代わって強力な指導者が望まれたことに誕生し、その後誕生するローマ帝国は最盛期を迎えている。』
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8B%AC%E8%A3%81

 ほんと、必要なことが簡潔に。

 若い人用に注釈をつけると、プロレタリア独裁の「独裁」はこのローマ的意味での独裁=ディクタツーラの教養階級向けのシャレで、資本家のための民主主義で腐った国家をプロレタリアが一時的に強権発動して治してやるぞ、という意味。マルクスもヨーロッパ支配階級の学校で習っていたわけだ。
 戦後、暴力集団なる一派と分かれて以来、日本共産党はこの庶民ウケしない言葉を嫌がって「ディクタツーラ」だの「執権」だとか呼び変えていたものだが、知らないうちに党綱領からも落としてしまったそうな。若い共産党員諸君、なにもそう卑屈になるなよ。
 もっとも要は、訳語じゃなくて、「プロレタリア独裁」というコトバがが恥ずかしくない現実を作ることなのだが、結局専制国家を作り上げた「労働者国家」なるものは、世界のプロレタリアート階級、いや人類へのへの巨大な裏切りだということには間違いない。
 
(一般向けに、「専制」とは何かをサービスしておこう。
『専制政治 せんせいせいじ
国民の意志を無視して,支配者がかってに行う政治。▽個人,または少数の支配者が国のすべての権力をにぎり,国民を政治に参加させないような政治の形。

学研学習事典データベース (C)Gakken 1999 無断転載・複製・翻訳・リンクを禁ず』
http://db.gakken.co.jp/jiten/sa/228100.htm)(なお、よくできてるけど、追記がうるせーな、って感じですね。たかだかこんな語義。転載が気になんならWebに載っけんなよ)


(2)民主主義とは何か

 こんな「独裁」はいやだというなら、その反対にあると信じられている「民主主義」とは何か。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
『民主主義(みんしゅしゅぎ)は、デモクラシー(democracy)の日本語訳で、君主の対概念として民主なるものを立て、君主ではなく人民(ないしは国民)が主権(支配の正統性および実際の政治権力の双方を含む)をもち、為政者と人民が同じ(治者と被治者の自同性)であるとする政治的な原則や制度。

転じて、個人の人権(自由・平等・参政権など)を重んじながら、多数で物事を決める原則を民主主義と呼ぶ場合もある。 単純な多数決と混同されることが多いが、多数決が単に多数であることに正当性の根拠を求めるのに対し、民主主義は最終的には多数決によるとしても、その意思決定の前提として多様な意見を持つ者同士の互譲をも含む理性的対話が求められる点でこれと区別される。

Democracyは”主義”をあらわす”〜ism”ではなく、本来は民主制と訳されるべきものであり、民主主義という訳は誤訳と言っても過言ではない。 このために日本ではデモクラシーが主義や概念のように考えられているが、本来はシステムや状況という意味しか持っていない。』

 もとはといえば、
『古代ギリシアの民主主義
民主主義の起源は古代ギリシアの都市国家(ポリス)にあるとされ、古典ギリシア語のデモス(demos、人民)とクラティア(kratia、権力・支配)をあわせたデモクラティア(democratia)がデモクラシーの語源である。しかし古代ギリシアの民主主義は各ポリスに限定された「自由市民」にのみ参政権を認めただけのものであった。例えば女性や奴隷は自由市民とは認められず、またギリシア人であっても他のポリスからの移住者には市民権が与えられることは少なかった。』
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%91%E4%B8%BB%E4%B8%BB%E7%BE%A9
 要するに、商店街の寄り合いに、自警団の運用項目が入ってる状態のことですね。これ自体はくだらない知識です。抽象的連関の塊である近代国家とは何の関係もない。田舎の一地方の自治方式が、ヨーロッパ人の祖先信仰によって、支配階級の学校で伝説的に言い伝えられてきたものです。


(3)行為者にとっての民主主義とは何か

 まあ、実はこんなことはどうでもよい。われわれ、行為主体にとって民主主義とはなんなのか、それが問題なのだ。

 いわれてみなければ思い出さないのだが、行為主体にとって民主主義とは、人民の一人である行為者の自分が政治をすることではない。
 自慢じゃないが、20歳以降、私の思いどおりに政策が決定されたことなど一度もない。だいたい、選挙には相当行ってるが、票を入れた人間が当選したのは20歳以降、2回だけだ。ちなみに、今回も落ちた。私が投票すると、それまで受かってたやつさえ落ちる。なにが民主主義だ。資本家の独裁ではないか。
 しかし、日本が民主主義でないなんて思うのは言語の存在の否定だ。

 つまり、民主主義とは、単なる可能性である。
 単なる可能性だが、一瞬先の可能性でもある。
 人はこの一瞬先の可能性に満足する。
 実現しようがしまいが、どちらにせよ、自分の将来には関わりのないことだ。
 一方、権力者にとっては、やりたい放題の可能性だ。
 被支配者に何をしようが、被支配者に対しては、この地位が揺るぐことはない。
  
 レーニンが正しく認識し(「国家と革命」を書い)たように、国家は暴力装置である。
 民主主義と呼ぼうが独裁と呼ぼうが、国家による支配なのだ。
 しかして、マルクスが認識した、生産関係を変えることのできる、権力者、すなわち「独裁」としてのプロレタリアートの存在は、暴力装置を操るレーニンが遂行しなければならず、そしてそれは理論上は、「容易い」ことなのであった。

レーニン「国家と革命」『世界の名著52』菊地昌典訳、中央公論社、1966.

 しかし、職業政治家に人民の圧力を生理的に感じさせるのは、普通選挙制度の存在しかない。
 残念ながらプロレタリア独裁は、この要件を欠く。
 かくて、プロレタリア独裁には、年限が必要だ。
 政権下に生まれた人間が選挙権を得る20年がその限度だ。
 それで安定政権を入手できないような政治なら、やめなければならない。

 国家権力者は、述べたように、生産関係を越えて恣意を揮える行為位置である。
 権力はその宣言として、この20年の年限を憲法なり最高綱領なりに明示することにより、自己を拘束しなければならない。




 なんか暑いしやる気ないしで、次回です。

 少し話題が前後しますが、正しい理屈と優勢な思想。アナーキズムとボルシェビキ。




【権力の行使と制約】
  大審問官とスターリニズム(その2)

     
題をつけ忘れ、後付けで

 正しい理屈と優勢な思想。アナーキズムとボルシェビキ
 
 まずは、レーニンです。
 このシリーズの当初に取り上げました二段階革命論の中で、戦後日本資本主義真っ盛りの中、民族民主革命を唱えた諸君らが心密かに拠りどころとしていたものに、レーニンのアナーキスト批判があるのではと考えています。まあ、心に疑問が湧くような良心的な部分では、ということですが。
 「民族主義は間違っている! 世界は一つだ!」と叫ぶアナーキストに、「アホか。民族主義を叫ぶ人間は、間違っているにせよ味方だ!」という、「実際家」のレーニン。易しく言えば、こんな図式です。
 今日の話は、先月を受けてここから始まります。 また結論だけですいませんけど。
 


 実際民族主義には2通りある。
 被支配者は、支配権力との間に共同性の分断がある場合は、被支配者への呼びかけに際し自己の共同性を強調する。
 あたり前の行為であるがこの支配権力が他国と密接に関連していれば、これは他称「民族主義」と呼ばれざるを得ない。
 一方、支配権力は自己の権力行使の対象に他国を選択すれば、自国の被支配者の協力を容易く得ようと他国との際を強調する。これは、自称他称ともに「愛国主義」である。
 問題はこの2者について、どんな制度化がされるか、という点である。
 焦点は、そのイデオロギーではなく、生じさせる制度である。
 もちろん、この2者の呼びかけについての、具体的賞賛獲得の獲物をどうするか、という問題を含む。
 最悪は、被支配者が地に足の着いていない場合の、大同につく同一化である。支配者のイデオロギーは常に地についている、その時代の生産関係上、どう利益を取るか、という問題だからだ。

 ここからは生産関係の問題ではない。国家権力の行使の問題であり、このイデオロギーをどうセットするかの問題だ。
 イデオロギーは、生理性その他の行為の原則に沿ってのみ、社会的効力を有する。
 組織イデオロギーは勝手なことを言っていれば良い。組織内で何を言おうと組織内の賞賛を受けるだけで、個人にとって問題にはならないが、そんなイデオロギーは組織外では犬の糞以下だ。

 昭和前期、ソ連その他の規定に関わらず、民族主義は日本人民に力を持たなかった。
 同様に、戦後社会運動において、民族革命など何の意味もなかった。
 対外与件がなかったのである。
 昭和前期、人民が階級を越えて一致して戦う支配者はなく、単に支配すべき米英亜細亜があったのみだ。
 戦後、アメリカは日本の生理性にとって最良の友だ、と人民は感ずる。

 かくして、民族主義は、アイヌ・沖縄をのぞいて、「日本」においては資本家の傀儡であるヤクザや体制右翼以外の持ち物とはなりえないのだ。


2 生産関係に対する武力的権力

 ここで、システムとは、変わりつつある社会のその変動システムであること、あるいはそうでなければならないことを注記しておく。

 まず社会学をかじった9割方の人間が思うような、動かないシステム、あるいは欠陥を修正しつつ恒常性を維持するシステム「理論」など、仮に存在したところで、行為する人間の役になど立ちはしない。もちろん、生活行為をする教授と授業料を払う学生に規定されて、「そんなもの」はありはしないのだが。その代わり「どんなもの」もないともいえる。
 だいたい行為する人間は、動く社会を見つつあるのであって、動かない側面を縷々述べることで見物料をとろうなどもってのほかの了見だ。

 さて、システムがシステムと呼ばれる所以は、生産関係の規定性であり、これが理解されなければシステムなどという観念には意味がない。
 しかし、システムたる生産関係の規定性はその実現に必ずイデオロギー過程を伴うのだ。
 たとえば黙りこくった社会的規制の打破を目指す社会的行為は、他者には何の意味も与えず、精神病院に入れる対象である。
 イデオロギー過程は、そのまま社会的事実としての認知を行き渡らせることもできるが、より効果的には国家権力の手を借りる≒法的成立を目指すのがよい。
、つまり、生産関係は、それのみが鉄の必然性をもって動くわけではない。
 人間の生産の高度化された社会においては、国家権力という暴力過程がシステムに変化を与える。
 国家権力(暴力)の規制因は、生産関係の確保のみである。すなわち、資本家的自由の確保と、抵抗勢力の圧殺である。
 それ以外の規制因子がないので、権力はそれ以外はなんでもできる。
 もともとなんでもできるための「権力」に規制因子がかぶさっているだけなのだ。
 統治権力は、当初、武力権力の行使とその情報の伝播により成立する。
 統治者からすれば、逆らうやつは殺す、であり、行為者からみれば、逆らうと殺される状況である。
 ついで、統治権力はその権力の「配分」により「安定化」する。
 統治者からすれば、逆らうやつは処分される、という認識であり、行為者からすれば、逆らうやつがいると自分が危ない状況であり、自分が逆らえばやはり危ない状況であり、一方、逆らわなければ自分が満足しうる状況である。
 これは、武力状況に限らない。
 たとえば下層安定化社会にあっては、仮にそこに閉じられた共同性があれば、下層内での権力者の賞賛入手によって、下層内被支配者は満足する。

 ただし、暴力には「姿」がある。
 暴力の強さは、第1に、集合性の大きさ。第2に、武装性の優越さ、そして第3に、活動力。
 とさしあたりおいておく。
 一方、暴力を動かすに、その他の規制因子のないところでは、人間の原則が登場するのは言うまでもなく当然だ。
 すなわち、賞賛と優越、そして特殊武装勢力の生理性である。


3 武力の指揮

 もともと武力は、武力内部において、指揮権が想定されている。
 日常過程においては、この指揮権を誰が握って「いることになっているか」が問題ではあり、これは一般に政治過程等の(政治応用学的)問題である。
 ただし本質は抑えておかなければ、非日常の過程が理解できない。

 武力とは、主体的個人行為において、
 まず第1に、その数日以上を伴う生理性の確保について、生計の途、あるいは日常生計に成り代わる生計の途であり、

 ついで第2に、その生命との代替性において、
 継続的には、社会的賞賛等の入手が図られ、
 即時的には、諸(感情)ホルモンの代償であり、また即時の生命確保の代償である。

 当たり前の話だが、給料や糧食なしで武力は保持できない。
 また、死ぬかもしれないところに行くには、農民であれば村や家族からの半強制的派遣、あるいは国家からの賞賛が得られることを条件に、戦場に出てしまえば、怒りや敵前逃亡罪なしで人は殺せない、
 ということである。
 当たり前のことを抽象的にいっただけだが、抽象性は、別の場面に使用できるから科学の武器となるわけだ。
 すなわち、こうした、社会的「雇用」の中で、指揮権は、給料や糧食を得られる意思決定者にあるかのごとく見られるわけで、それが得られない、あるいは別途の生計が確保される状態の中で、別の社会的賞賛が得られ、逆の怒り等が存在すれば、武力は反逆する。
 すなわち、このことは、飢えた兵士は、革命理論によって確保されたかのごとき将来の食料を目指して、圧倒的群衆の支持する蜂起の中で、仲間たる市民が首相の私兵に撃ち殺されれば、怒りで反逆することを意味する。

 つまり、農奴の闘争が負けたのは、主観行為論者から見れば
「闘争の展望が立てられなかったこと」と、一方でそれを支援するものがいないのは
「支援者と連帯する事を教えるものがいなかったのだ」
になってしまう。
 すべて主観だ。
 農奴闘争が客観的であることを知るマルクス主義者この大規模化についても社会をターゲットにしなければならない。
 社会から個人につなげなければただの説伏坊主と同じだ。


(補足) 個人主体主義と個人国家主義

 いわゆる個人主義は、実は個人の行為の尊重にすぎない。
 すなわち、資本家に捧げる行為、神に捧げる行為を、どうせ働きもしないプロレタリアではなく、個人について尊重するぜ、ということだ。
 自分は(国家と神のために)勝手にやらせてもらう。でもそれは国家のためだからとめないでくれという女々しい臆病者のお願い思想だ。
 一方、本当の個人主義は利己主義だの力の思想だのと呼ばれて国家権力に尻尾を振る者から畏怖的に軽蔑されてきた。
 しかし本当はそうではない。
 まあ、ここでは、ブルジョワ個人主義は個人主義などではないことを指摘しておくにとどめる。

 同様に、国家への礼拝自体は、行為の権力的賞賛にはならない。
 それ自体は、行為主体の行為とは関わらないからだ。
 国家への礼拝を基礎とした社会組織の権力を使用しなければならない。
 人は、なにそれが偉いといっても、それは「偉いもの」への行為様式を規制的に入手するだけだ。たとえば教育過程において。
 したがって、国家主義が吹き荒れようが、昭和初期にも共産主義者は存在しうる。
 もっとも共産主義者がどう輩出しようが、それはそれで重要な社会規制基盤ではあるが。
 両者の「同様」さは、行為の欠如への誤解の存在である。確立された行為主体には具体的行為を通さなければ意味はない、という認識の欠如だ。


4 ボルシェビズムと権力崇拝

 さて、というわけで「大審問官」である。
 大審問官の秘密、それは要するに社会の支配権力者の権力行使の際の良心の謂いである。
 すなわち、すべての権力行使者が胸に持っているはずの、しかし実は毛頭持ち合わせていない部分の表現に過ぎない。
 権力行使者は、権力行使を
1 好きでする
2 嫌だがしかたなくする
3 何も考えずする。
の3通りである。
 それぞれを担う人間は、全体の、1割、1割、8割、みたいな配分だろう。

 しかし、なぜ嫌々でも権力行使をするのか。それはその権力行使が社会の総体から望ましいと観念されうる可能性があるからする。
 社会の権力行使は、権力者がいかに好きだからといって、社会総体への望ましさの可能性の表明なしには行い得ない。権力行使者は単独で存在していないからである。
 集団化した権力行使者も、社会との武力的つながりを持たざるを得ず、多数の武力、要するに多数の人間をごまかさずに権力を行使することはできない。
 彼らの行為はもちろん自分の懐を肥やしもするだろうが、社会総体への改善の幻想も含んでいるのである。
 したがって、問題は、ここなのだが、
「すべての権力行使は、良心のある人間の、心の痛みにとっては、自己犠牲の幻想を持つほどの欺瞞に満ちた他者否定を伴っている」のだ。
「社会のためになるからしょうがないとか、はあ、だとか、ふざけんじゃねえよ。誰だって、人間は1人しかいねえんだよ、大事な大事なそれは、世界中、だれを基準にしたってそいつ1名なんだよ」
 という人間がもつべき基本姿勢の強調の重大さは、ここに存在する。

 これは展開すると長くなるから今は途中を省略するが、結論として、問題は、その1人について、社会の中でその1人の生を(死ぬことを含めて)生きることを可能にする選択肢が、支配を引き継いだ権力者の意思決定に、必要なのだ。
 ということを誰一人展開できていないが。
 わたしも、今は興味ないんだよね、そんな私が死んだ後の話はね。まあいつか。

 というわけで、主観的行為論者には重大な大審問官問題も、実は単なる矛盾を背負った人間の苦悩にしか過ぎず、ドストイエフスキーがどれだけ大衆的エリートの精神組織に重要であれ、スターリニスト文学官僚がわけもわからずのたまったように、それはただのプチブルの苦悩にしか過ぎないのだ。
 
 しかし、その批判は本来両刃の剣であったはずなのに、スターリニスト官僚の批判は決して自分に突き刺さることはなかった。
 日本でもそんな捉え方をできる力量をもった新左翼などどこにもなかったのだ。
 本来はそうではない。
 すべては「権力」が悪いのだ。がもちろん「悪いのだ」では済みはしない。
 個人主体主義は、したがってアナーキズムは、そうした個人の泣き言ではなく自らの権力否定主義をどう制度化するのか、ボルシェビキに代わって理論定立しなければならないのだ。
 とはいえ、外国のサンディカリスト紹介しかない現状は、マルキスト以下の寒空だな。
 
 だいたい、ネットの場末で正しい結論だけ言っても受けないんだよねえ、そんなこんなで私は社会科学上の根本問題の結論は9割クリアしたんだけどねえ、真理の広報はそれと同等に大事なんだよね。


 
 で、本編が必要というわけです。その本編執筆のため、次回でとりあえず休載するつもりです。

 最後は、腐朽せる資本主義・労働者窮乏化へ。




(最終回で消すのもさみしいから前書きをコピーした)

 (久しぶりの方用前書き)
 いよいよ長い間のお休みをいただきました『今月の話題』が、たいした装いの変更もなくまた始まりまして、もう8回目。題は《今回のトピック》。
 題が違うのは、まだ前のを置いとくんでごっちゃになるから、というわけでもなく、「今月」っていうと、まあ1年は続きそうだな、みたいな継続性が感じられるのでやめた、という心境というか、姿勢の変化です。結局、そんな長生きするわけでもねえよな、みたいな。
 前からそう人に言うくせに、やることに反映してないのはよくない、というところ。「今回」なら、せめて、あるのは「次回」だけでしょ。
 この壁紙も、心機一転、いっそ花模様にしたれ、という心境でもありますが。ま、初めての方に引かれちゃいますので。


、、、、なんていいながら、もう半年以上過ぎて。上、書いたのそんな昔なんだよね、、、
 まあ、そろそろ、本編に入ろうと思っております。

【資本主義の腐朽と世界変革】
(結語に代えて)

 (おお、おまりにも大げさな題。 にしちゃ文が短いし)

 
 さて、こうして60年安保の総括の旅は、終わりの一歩手前に近づいた。
 最後は、未来展望の理論総括である。

 レーニンに基づき「資本主義の腐朽」を掲げ、腐った保守政治を弾劾し社会主義政党への支持を叫べればそれでいい既成左翼に対し、「新」左翼は、日本帝国主義の侵略的発展の重大な足がかりとして日米安全保障条約を捉えていた。
 http://www.kyokai.gr.jp/syakaisyugi0505b.html(社会党の雰囲気)
 http://www2s.biglobe.ne.jp/~mike/koryo61.htm#m47(共産党の雰囲気)
 http://homepage3.nifty.com/mcg/japan/history/gakusei.html(新左翼は今となってはどうせそれぞれ意見があるのだから、こんなとこで)
 その後40年の日米資本主義の海外進出的発展を判断材料とすれば、まさに「新」左翼の現状認識は正しかったといわなければならない、仮に既成左翼に理論があるとすればだが。
 
 この話はこれで終わりだ。正しい批判を受けても痛くもかいくも思わない社会党(というのがあったのだ)共産党の政治主義者諸君と付き合う気などさらさらない。
 
 が、かといって、「資本主義の腐朽」観念自体が間違っているわけではない。
 
 
1 資本主義の腐朽
 
 およそ腐朽とは何か。
 別に資本主義は腐って立ち枯れるわけではない。
 国家武力(≒権力)に手を引かれて大人になった資本主義が、自身一人では立ち行かずに、秩序維持のための国家武力にさらにお願いし、国家寄生的な施策をとるしか生き延びる道がなくなっている場合をさす。
 いわく、「侵略」であり「社会保障」であり「需要創出」である。

 過去、レーニンによって後進国植民地の「寄生」と喝破された帝国主義は、本来的に、経済的システムとしてはすでに崩壊しているのだ。
 崩壊した帝国主義は、国家武力の意見に従うので、大内力の主張する国家独占資本主義の成立の契機(社会主義ソ連の成立)のごとき、政治的形態を現出させる。
 http://homepage3.nifty.com/ima-ikiteiruhushigi/sub30.html(どなた様か知りませんが、おまとめありがとうございます)
  しかし、もちろんこれは政治的外観であって、だからといって資本主義に何かが加わるわけではない。資本主義の制度維持を担当する国家権力として、現状をいかに差配するか、というだけの要素である。
  もともと革命の要因となる「生産関係と生産力の桎梏」なる概念は、生産関係と生産力の重要さを端的に示すにはよい用語だが、じゃあ、実際、何が桎梏で、その後に何が現実に生ずるのさ、と言ったときに実用性がない。
 実用的には、この矛盾が『国家武力(≒権力、≒強力)の変容的現出を必要とさせる』と言うのがよい。生産関係は変化はしても壊れはしないのだ。みんな生きていけないからね。一方、じゃあ、ただで変化するのか、といえば、ただでは変化はしないのだ。国家権力が制度を守っているから。

 ともかく資本主義は、大恐慌後の国家施策、大戦後の国家施策と資本主義は腐朽の道を辿りつつも、国家武力によって低開発国を自己の経済体系に巻き込むことによって自身を延命させてきた。
 しかし、それもすでに限界に近づいてきたのがグローバリズム、すなわち、地球世界の2極分解である。

 グローバリズムとは何か。アメリカ資本主義の延命を機軸とする世界の自由市場化である。
 ま、それはそれでいい。しかし、主導する部分がどこであれ、それはアメリカ1国の話ではなく、世界資本主義システムの現在的発現形態である。
 
 われわれ日常生活者にとって、各企業が何をしようが興味はない。しかし、われわれ自身の生活、われわれの仲間の生活、われわれの目にする人々の生活がどうなるかは、私行為者自身の問題である。すなわち、カネに目の色を変える人々、電車に飛び込む人々、共働きでやっとかっとの生活費を得る人々、19世紀的工場労働をこなす人々、ようやく地獄から抜け出て、しかしただの次の地獄への道をとぼとぼと歩く母と子、そうした彼らの存在である。
 http://www.mhlw.go.jp/toukei/saikin/hw/jinkou/tokusyu/suicide04/2.html(自殺統計)
 (その他をネットで探してたけど、だめだね、ネット。外国のことなどネット人種には興味がないのね。テレビのほうが偉い)
 これはいったいなんだ?
 およそ、人間の必要物には限りがある。
 必要物資について、これまで資本主義が開発した後進国の生産力は、先進国の需要をまかえるほどに至った。
 すなわち、先進国の必要物は、後進国の労働時間でまかないうる。
 こうして、先進国資本主義者は、これまでの労資の蜜月をチャラにし、労働者を経済的低位に置いてきぼりにするしかなくなったのだ。
 すなわち、たった一人の資本家でも低賃金化を進めることが許される国家体制にあっては、悪貨が良貨を駆逐する。
 もともと、労働者が優越や賞賛の存在のおこぼれに預かって生きている爛熟した資本主義国家にあっては、その国家権力的制度が見直された場合は、あれもこれもの叩き売りに投身しないゼータクな労働者諸氏は、首をくくらざるを得ないものなのだ。
 資本家の行為の契機は、利潤の獲得とその制度の維持のみである。
 たまたま、ある状況では賃金の高下が大衆生産にフィットするかもしれないが、それはたまたまに過ぎない。
 また、たまたま自国内の労働者が(賃金が少なく)商品を買えない場合は、当然外国に売ろうとする。
 たまたま自国内に未来への展望を持つものがいれば、仕方がないので国家に、他の資本家に勝手にされないように賃金や労働時間の協定ラインを結ばせる。
 一方、国家においては、権力者の契機は、自分の生理性の確保、首にならないことを前提とすれば、賞賛と優越のみである。国家権力は社会そのものから行為の原資を得ている。社会から資本主義賞賛のお墨付きさえ得れば、散々ご協力いただいた知ったかぶりの評論家や無知なネットワーカーの意図を問わず、やりたい放題だ。
 
 一方、安さは更なる安さを求める。
 共同性に支えられた国家権力による労働力保全がされない、要するに存在するのは国家ではなくただの武力を持った集団的地域社長にすぎない低開発「国」においては、不要な住民は、放浪するしかない。
 
 ここで、残念ながら、マルクスの予言のごとき、世界資本主義におけるシステムとしての階級闘争は組織される時間がない。その前に、地球資源は空気を含めて再生不能となるのは周知の通りである。周知じゃない? 考えたって得しないことは誰も考えやしないけどね。


2 かくて

 道は3つである。
 
 第1の道:
 欠乏する自然資源の再生産のため、先進各国の武力に支えられた世界資本主義による「低開発」各地域への経済的・暴力的侵略が最後的に繰り広げられ、地球世界は、毟られ、引き剥がされ、再生不能となり消滅する。
 
第2の道:
 何らかの理由で、アフリカ等の国家なき国家が、自前の生産関係の共同性を持った国家として成立することが可能性としてはある。
 各国家での共同性に支えられた人民の存在の維持により、諸国家の意思決定者は、ようやく、地球での資本主義の限界を自主的に悟る場合がある。

第3の道:
 先進各国は、新しい社会理論を体現化した国家を見習い、まずは、正しい人間の主体意思的諸国家を建設する。意思的諸国家はそれそれの統制の下に、資源の適正な配置を行う。
 
 21世紀、この100年の道はこの3つであり、この3つしかない。










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【この文を読むための参考】
行為の原理と原則


 えー、というわけで、この文は、私、隈の社会学の一部ということで、すでにみなさんがある程度私の理論をご存知でないと読みづらくなっております。
 で、例によりまして、隈行為論の中核たるべき(?)前からの読者にはおなじみの例の行為の原理・原則について、ここで、簡単に行為論の基礎を引用しておきたいと思います。
 なにしろいつものコピーですから、前からの読者の方はご覧になる必要はありません。


 ‥‥‥‥
 人間が行為をする際に不可欠な、個人の主体的な行動の原理・原則をあげておく。
 第1に〈状況の認知の原理〉
 人間は、現在の自分の状況と将来の状態へ移行する手段とを認知しなければ、反射運動以上の行為をすることはできない。
 これは優柔不断な人間や計算高い人間だけがすることのように受け取られそうだが、そうではなくて、どんな単純素朴な人間(や他の動物)のどんな行為にでも、不可欠なことだ。酔っぱらってビール瓶で殴りかかるような奴でさえ、自分が酒場にいることを認知しており、一瞬の間に、自分の前にビール瓶があることと自分が以前に殴る動作をしたときのイメージと、自分の相手が負けるイメージとが、将来のイメージとして神経組織を走るはずだ。
 (もっともここで〈イメージ〉というのは、心に浮かぶ「イメージ」の根底にある作用のことで、現実には心に浮かぶ間もなく神経細胞を走り去っているかもしれない。)
 つまり簡単に言えば、人は自分がこうすれば相手がどうなるかを(誤解やマチガイはあるが)心の底で知って行為する。
 第2に〈将来感覚の認知の原理〉   
 人間は行動する前に、かならずその行動を現実にしたときの自分を感覚してから行動するものだ。
 人間の反射運動を除いたすべての行為は、頭の中で処理されるスピードにこそ違いがあるが、この将来の感覚を媒介として(多くの場合はイメージを現象させつつ)成立している。
 さっきの酔っぱらいも、相手が負けたときの快感を認知して(予想的)期待とともに殴るわけだ。(もっともアルコールの作用もあるし、どこまで深く認知しているかは別だが。)
 簡単に言えば、人は自分がこうしたときの自分の状況を心の底で知って行為する。
 第3に〈確認の原理〉
 人間は行為し終わった後に、その行為がどんな結果をもたらしたかを確認する。
 これは、他の原理と違って、いつも生ずるというと言いすぎだ。でも、人間が生き続けるにはある行為を別の場所でも適合するように修正して再使用していかなければならないわけだが、この意識的な行為の成立には不可欠なプロセスだ。
 相手が血を流して倒れていたのを確認したら、次の機会にビール瓶を手に持ったときに神経組織を走るイメージが異なるだろう。(それが快感で病みつきになるかもしれない。)
 簡単に言えば、人は自分がしたこと結果を知らないと満足しない。もっとも忙しい現代、「こうなったはずだ」と信じて次の行動に移ることも多いが。

   人間行為の原則

 これらの原理をもった行動の中で、人間が何かの行動の選択を行なう際の原則をまとめよう。
 第1に〈論理性の原則〉
 人間は、たとえ子供でも、つじつまの合わない行動はしない。そもそも「考える」という行為は論理の道筋を必ず持っており、「考えて」する以上は、必ず何らかの意味で論理的な行為の選択だ。更にこの「論理」とは、以前に自分が行為した経験と今の状況との間で、どこが同一か(同定の原則)、を高速にイメージすることだ。
 つまり、人は行為をするときは、自分の経験を通して、こうなる「はずだから」として考える。
 第2に〈好悪の原則〉
 人間は「好き嫌い」によって行為の選択をする。
 これは別に愛情の有無をさすわけじゃない。人間が生物学的な存在であるところから、すべての行為について生理的な判断として「好悪」があり、この生理的な感覚が積み重なって、複雑な好悪判断がなされる。
 つまり、人は、較べてみて、より好きなことをする。
 第3に〈経験の将来感覚の原則〉
 今述べた〈好悪〉は、具体的には、自分が過去に経験した生理的感覚の直接の記憶によって判断される。山に登って得た快感は、人に「僕は山が好きだ」と思わせる。
 ところで、この「山に登れば快感がある」という認知は、この快感の記憶とは別に、生理的快感の存在する場所として「よかった」イメージ、「うまくいった」イメージを保存させる。そして、自分と快感との関係を保存したこのイメージは、後になって別の行為の判断の際に刺激され、使用される。
 たとえば、山を削って道路を作る計画は、先に得た快感関係のイメージを刺激し、僕はこの計画に反対するだろう。(これは、僕が「山を好きだ」からではなくて(山には「性」もないし一般的に僕に対して対応をもつ主体でもない)過去の山との関係の認知を刺激するからだ。)
 「価値判断」と呼ばれる判断は、この好悪によって判断された経験上の記憶のイメージによるものだ。
 つまり、人の快感は具体的なモノにくっついて残る。そのモノは快感を呼ぶものとして人には大切なものになる。
 第4に〈優越的自由の原則〉
 人間は、行為の完成、つまり、一連の行為の流れを自己の意思のままに経験できたときに、自己の行為に満足を覚える。
 そのため、この行為を邪魔されずに自己の自由の下に行なえる担保として、他者に負けないことないし優越していることを望む。
 これは、日常的には最も重要な選択原則だ。
 要は、人は自分の好きなようにしたい。
 第5に〈賞賛(ー規制)の原則〉

 人間は、他人から教育されて初めて一人で生存できる人間となれる。そこから、人に賞められることを望み、かつ、そのためのひとからの規制を甘受する、というより内在化する心的機構を持たざるをえない。
 これは幼少期には重要な選択原則となる。ある年令の子供は(他の問題がなければ)人に賞められるように行動を選択する。
 また、潜在的には、大人になってもいわゆる「自我」として重要な感覚を形成する。
 要は、人は誰かに褒められたい。

   人間の自発性

 これら原理と原則は、いわば人間の環境的事情、人間が行為する際に受動的に神経活動を行うときの諸側面だ。人間の存在それ自体を考える際には、これら以外に、これらの環境性を身につける人間自身の問題を一つ考慮に入れなければならない。
 つまり、人間の自発的事情、身体的な諸要請(欲求)と、身体性に裏付けられた行為の自由だ。人間は、生物学的個体として自己の生存を自分で確保していかなければならない。当然至極のことだけど、指摘だけしておく。

 さて、行為の原理・原則はこれだけだ。重要な点は、ここでは誰にでも思い当たる当り前のことを羅列しているわけではなくて、「これだけだ」と主張している点だ。以下の行論でもこれ以上の素材は使わないし、その必要がない。
 人間は、これらの原理原則の下で、自己のある行為の完成を求めて行為する。従って、行為の本来は個人の自由であり、種々の後発的環境的制限からの解放への志向だ。
 もう少し簡単に言えば、人は好き勝手なことをしたい。もっとも、都会の人間が砂漠の真ん中で「さあここならお前は自由だ。好き勝手にしろ」といってもふつう楽しくはない。人は、環境によるいろいろな制約の中で、自分の認知に沿って思い通りの行為ができたとき、生理的に満足する。 ‥‥‥‥




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