今月の話題


 えー、貴重な読者の方から、このページが左右にはみ出て印刷できない、というおしかりを受けました。
 大変恐縮しまして、左右縮めたのですが、それでもだめな方は、すいませんが、とりあえず、表示→ソースでコピーして、ワードパッドとか、ワードのの他のワープロソフトで整形していただくとありがたいです。




 で、今月の話題もめでたくずいぶん続きまして、、、変だね、まあ不精者ですので、ずいぶん続くのもすごいことで。
 で、もう乏しい私の自由時間を出版モードに入る時期になっておりますので、この辺で区切りをつけることにしました。
 つきましては、以下にこれまで(03年5月から04年2月)の掲載分を載せておきます。
 全体まとまってはおりませんが、まとめるかたちで7月公刊予定を進めておりますので、またその節はよろしく。
 なお、ページが重くなりますので掲載文を前後で2つに分割しました。03年9月分以降をご覧になりたい方は、「その2」へ飛んでください。

 去年から月1のテーマで、《情報》についてのお話を載せてます。
 情報っていうか、理論ていうか、論理っていうか、イデオロギーっていうか、一言でいおうとするといいづらいのですが、まあそのような、長く言えば「人がこれは正しいんだぞ、って語る言葉について」です。
 それで何をするつもりかというと、私の心の底では「運動アピール」の本体を明らかにしようと思ってるのですが、それは私の心の中だけ。表面的には、並み居る「社会理論家」を批判し尽くそうかな、みたいな方針です。
 並み居る、といっても、予定しているのは批判なので、それだと見境なく誰それかまわず悪口をいうことになってしまう。良心的に社会学のため、あるいは社会のために人生を費やしておられる方々をわざわざ批判の対象に選ぶのは全然気が進まない。実際、当初は、たとえば放送大学の社会学教科書なんかをまな板にあげたら全国どこの国の人でも見られていいんじゃないかと思ったんですが、この理由でやめました。
 というわけで、まず有名な人にしよう。有名な人はどうせ他の人に誉められているから私ごときがいくら批判したって気にもしないだろう。その他は、本人の意図も含めて、科学の名において誤った論を展開している人々に焦点をあてて、これを批判していこうかと思っています。



【5月分】
『論理の陥穽』
  ーー反現実の論理;3態
  
今月は社会科学の《論理》について。
人がもっともらしく述べている言葉のどこに誤りが隠されているか、です。


1.論理は、社会科学の場合、現実と一致する点がなければ実用上誤りと断定してよろしい。資本論のように現実と離れているものもありますが、これは抽象という作業に由来する問題で、またあとの月に話題にします。
 さて、この「現実」で一番弱いところが感情・感覚です。それは人によって違うし、何よりもまず、その感覚が存在する現実と、その人間の身体を支配する大きさについて、知らなければ話にならない。
 そこで、論理を論理らしく見せかける人はここを突いてきます。

 感情・感覚について、飢えや恐怖を含めて、「そんなものはないよ。仮にあるなら無視したらいいよ」と展開する自称論理。
  宮台真司「自由な新世紀・不自由なあなた」、株式会社メディアファクトリー、2001。

 最初は宮台真司。
 社会学者として最初の人に敬意を表しようとしたら、その前に何百ものほんとの学者がいるわけですが、なんといってもネームバリューってもんがありますよね。「宮台真司」えーっ、それって社会学者なの? フジテレビのレポーターでしょ? みたいな。社会学者で有名な、と言うよりは有名な人が実は社会学で生計を立てていた、というような。一般の人も知ってるのがいいよねえ。先にネームバリューありき。
 実は今年の某有名大学の教養過程のプログラムを見たんですが、「社会学」なんてかけらもない。関連学として、政治文化学と社会文化学があるだけ。そうか、一般の人には「科学」には魅力のない時代なんだな、とあらためて思いました。
 まあどうでもいいんですが、そういうわけで最初に彼。

 って決めたけどさて困りました。詳しく読むほどの人じゃないし、そのくせ訳の分からない論理展開はするし、で。私、時間ないんですよね。この本にしたのは、どなたでも読めそうな人生相談が半分を占めていたこと。別に、ご希望なら学術論文でもいいんですけどね。(なんか、すごく嫌そうにしてますね。しかし、じゃやめたら、と言ってしまうと、後の人の話もぜんぜん続かないので、そこは我慢して)
 
 この人の論理はマスコミ評論家の論理です。
 おもしろければいい、というたぐい。普通の学者は取り上げませんが本人が社会学者を自称しているのでしょうがありません。
 さて、人は、他の人の感覚についてそんなものはくだらないよ、ということができます。その人が陥っている現実を生理的に、ホルモン分泌として感じない限り。
 昔、フランス革命が起こるとき、独裁君主の王妃がいったという言葉があります。
「なぜ外の群集は大声を上げるの?」
 ものの分かった侍従が言いました。
「王妃様、彼らはパンをよこせといっているのです。彼らは飢えてパンを食べられないのです」
 王妃様、答えて言うのに、
「なんで? パンがないならケーキを食べたらいいじゃない」

 この宮台という人は、飢えた人の人生相談に答えて、おなかが空くのも健康的だよ、と説教している。
 人は他人の現実を知らない限り、自分の(幸せな)現実に引き付けていくらでも発言をできるのです。また、それを聞く人も、それを聞いている間は語っている幸せ者の現実に浸ってますから正しいような気もする。
 しかし、読み終えてしまえば、またおなかが空いていることを思い出す。バカ話に感心するのは世間知らずの少年少女か教授仲間しかいない。
 私などは大学(助)教授はそんなプロパガンダかデマゴーグであるしかないとは思いますが、願わくば、読者諸氏は、大学教授と社会学者は似てはいるけれど重なるわけではない(多くは)ことを理解くださるよう。

 なんてまとめていっても、本人の論理にそって批判しないで終わると誰だって怒りますよね。そこで、社会学者らしい発言を取り上げて見ます。
 どこでもいいんですが、同書p172。
『…… コミュニケーションが端的に不可能だとしても、それが可能である「かのように」見せる装置が存在するはずだーーそう主張する論敵(大澤真幸)相手に、そんな装置はそれこそ端的に必要ないと私は研究会で主張し続けます。東氏の否定神学批判と似ています。
 これを私は「心臓エイリアン問題」と名づけています。システム理論は機能主義を採用し、存在論を排除します。システムが「うまく」回っているかどうかは議論するが、「何が」回っているのかは議論しません。白分の心臓を考えると分かります。
 私は自分の心臓を本当の心臓だと思っていますが、もしかすると人工心臓かもしれない(自分で見たことがない)。いや磁気スキャンしたら人工心臓じゃなかったとしても、本物の心臓のフリをするエイリアンかもしれない。でもうまく回っている限り少しも問題ありません。
 同じように、コミユニケーションは意味伝達を成功させているのではなく、端的に「たまたまうまく回っている」だけです。論理的循環も決定不能性もシステムが回ることを少しも妨げない。システム理論はこれを「脱トートロジー化」と言います。……』
 
 そんなことはない。
 ある上司が部下を怒鳴りつける。部下は「必ず」上司の機嫌を直す方向へコミュニケーションを回さなければならない。その時にどんな言葉を使うかは部下の自由だが、その言葉によって会話を成立させなければならない関係が存在している。
 現実の企業世界では「たまたま」でもそれに失敗してしまってはならないのです。
 言葉などなんでもいいが、しかしその関係をクリアさせる言葉でなければならないことは、その関係を取り巻く関係の中に内在している。
 つまり、宮台はよくいってそんな現実を知らないのです。

 そして私の人生経験では、そういう発言をする人は、そんな現実を知らないんじゃなくて、目にはいっても記憶にとどめない回路を持っているものです。まあ、知り合いじゃないので誤解かもしれませんとは言っておきますが。

 あとは一事が万事ってことで。
 

2.社会科学上の論理が現実と離れる第2は、因果連関の話をするときに現れます。
 なんでこうなっちゃったのかな。なんのせいだろう?
 もちろん、社会科学ではそれが一番の解明課題なのですが、政治志向の強い人たちは一般向けの本だと平気で「ある前提」を持ち出す。
 人の意思です。
 関係を見ないで、思想のせいにする。

 竹田青嗣・橋爪大三郎「自分を活かす思想・社会を生きる思想」径書房、1994。

 橋爪というひとはある種社会学者ですので、っていうのはある種客観的な態度を装えるってことですが、思想の裏に関係があること自体は分かっています。でもどういう分かり方かといえば。同書p56。
『橋爪:
 私はそういう、理想を語るだけのものとか、単なる知識としての思想には、もうほとんど興味がないですね。
 そういうのではない、いま言ったような意味で現実と十分に接点を持っている思想は、おそらく生きやすい、生きるのが簡単な思想だと思う。だからそういう思想は、それを生み出した人だけのものではなくて、すぐさま万人のものになり得て、しかも万人に選択されたときには、確実にそのぶんだけ杜会がよりよくなるというようなものなんじゃないかと……。これは私の希望だけれども、そういうふうに思っています。……』。
 つまり、思想が、それ自体で生きて関係を食ってしまえると思っていることには変わりません。
 こういう人たちにとって、現実など蟷螂之斧。
 正しい心と認識さえあれば社会は変えられる。
 宮台と比べれば純粋ですが、あまりに古い。われわれにいわせれば、65〜70年の闘争時、「主体性」論争を他人事にして、行動として生きてこなかった人間の生きざまです。いかに人間として多少は高級でもこれでは宮台にとって替わられてもしょうがないレベルです。

 ついでに竹田という人の発想もならべておきます。もっともこの人は哲学者ですから、はじめから話題にしてもしょうがないんですが、念のため。
『……(国家同士の利害対立で戦争が起こりそうなとき)そのときに一般の人問は、まず自分で世界情勢について情報や知識を集めたり確かめたりして判断するという場所にはたてない。必ず専門家のいろんな考え方やプランから、これが妥当なことを言っていると思えるものを「選ぶ」という立場にある。
 そういう場合、僕は大きく言えば選び方の原理は三つあると思います。まず、「自分にとって」どのプランが都合がいいかという選択。もう一つは「われわれにとって」という立場からの選択。日本人だったら日本にとって都合がいいからという選択ですね。そしてもう一つは、「みんなにとつて」という立場からの選択。つまりこれは、まあ完全な解決というのはむずかしいが、いちばん矛盾が少なくてすむような方向だという立場からの選択ですね。これは乱暴な分け方に聞こえるかもしれないけれど、要するに人問が何かを選択するという場合の「動機」としては、この三つを考えればいいわけです。
 ただ大事なのは、人間がこのうちどれを選ばなくてはいけないという超越的な根拠はどこにもない、ということです。それはある意味で選択の自由ですから。俺は俺さえよければいいんだという人もいるだろうし、やっぱり世界全体がうまくいって戦争や全体主義におちいらないほうがいいという人もいるでしょう。どちらに対しても、選択を強制する原理はないわけです。……』p62。
 まさか「お前の思想の選択動機にはこの3つを考えればいい」なんかいわれて納得する人もないでしょうが。
 私などは、今回のイラク侵略では、イラクの1市民の命の蒸発と、橋爪の不愉快なデマ宣伝への反感が、とりあえず(戦争に限った)「思想の選択動機」でしたけどね。
 いや、哲学者とは評論業者のことですから別に文章に意味はなくてもいいのです。ただ、哲学者の評論になにか社会科学的な意味があると誤解されるといけないのであえて載せておきました。


3.論理は、そこで使われる定義しだいでいかようにも構成できます。
 そこでの論理は論理内部では別に誤っていないかもしれません。
 しかし、われわれはふつうにいわなければなりません。「現実と合わない論理は間違っている」と。
 まあ、「定義」のせいですけどね、定義したのは論理のためなのだから、やはり論理が間違っていると言わなければならない。
 
大澤真幸「支配の比較社会学に向けて」『権力と支配の社会学』所収、岩波書店、1996。

「支配とは、一定の明示的な範囲の人々の集合を、持続的に、[特定の源泉(支配者)に帰属させうる]命令に服従させる可能性が存立している状態である。ここで、「服従している」という語は、命令を肯定的な前提として(つまり受容して)、事後の行為が遂行されている状態を指す。したがって、支配は、権力の下位類型である。すなわち、それは、権力が、社会(空間)的にも時間的にも安定的に一般化している状態であるということができるだろう。」同書p23。


 論理を構成する「言葉」というものは、解明する目的に沿ってのみ意義を持って定義されます。
 たとえば、ある社会現象、会社の課長が平社員を怒鳴りつけている場面を考えて見ましょう。
 ここでは課長と平社員との関係について、いくつもの定義ができます。
「課長は一見権力を行使しているようにみえるが、課長が行使する怒鳴り声は、1mの距離で70デシベル以下では無意味である。だって、あんな静かに話す課長に対し平社員は一見うなだれているが、次の瞬間には元気になれるはずだ。従って1mで70デシベル以下の声でするコミュニケーションには権力を伴わない」
「課長は一見権力を行使しているようにみえるが、課長が行使する怒鳴り声は、表情を添加しなければ無意味である。従って無表情でする怒鳴り声を伴ったコミュニケーションには権力を伴わない」
「課長は一見権力を行使しているようにみえるが、課長が会社で行使する怒鳴り声は、明日も同様の日常が存在するのであるから、両者には一時的な権力関係しかない」
「課長は一見権力を行使しているようにみえるが、実はこれは部長が命令したことであるから、課長には権力はない」
 こんなものはいくらでも続きます。
 社会学者は、自分のお気に召すまま、どの見解をとったっていいはずです。
 しかし、しかしです。
 会社の平社員は怒鳴られなくとも、自分の行動は課長に支配されうることを知っている。
 本来の社会学は、この平社員という行為主体を離れて存在するわけにはいかないのです。
 彼のような、行為について意義を持たない定義は、いくらでも多様にできるし、また、いくらしても無駄な定義です。
 あるいは、同じ意味で、この定義は「間違っている」といったほうが生活する人間には良く理解されると思います。

 その後で同様に関連しない定義を並べれば、あとは何を述べようが自由自在です。一方、因果連関の学であるべき社会学にとっては無意味な論稿となります。
 もちろん、社会学的に客観的に述べれば、そんな論稿もそこに含まれるでしょうが幾分かの社会的事象の知識の配布として幾分かの意義は残りはします。
 しかしそれも、一人よがりの意義づけが加えられては、さてどのくらいの意義なのかは判然としません。

 彼はアフリカ、ドゴン族を実例として論を(少し)展開しようとするのですが、なぜそんなアフリカの知識のない私に彼が一人よがりであることか分かったのか? それは彼が
「『われわれ』の社会では、支配者の権力は、それがまさに被支配者によって承認されているということが顕示されていることによってこそ支持されているのだ。」(これが日本の民主制だ)同書p25。
 と述べるときに明らかになります。
 ぼくはこの日本の国で、別に支配者の権力なんか承認してはいないからね。百歩ゆずって他の日本人が承認してることを顕示されたものもいまだかって見たことはないからね。

 私の現実はそんなものではありません。
 私は、私が承認してもいないのに、支配を受けています。
 もちろん「お前が承認しないというなら好き勝手にやってみろ、できないのは承認しているからだ」と無意味な文言を重ねられれば、得たりとばかり喜んで反論するのですが(「変革と機制」p23参照。)。
 彼の言う「われわれ」には少なくとも私は含まれていない。もしかすると彼自身も含まれていないのではないか、と思うほどです。
 もちろん彼はおそらく言うでしょう。「だってみんな選挙で投票してるだろ? それは被支配者が彼らを承認してるからさ」
 バカいっちゃいけねえよ。お前とお前の弟子以外、誰もそんなことまで考えて投票行動をしてやいないさ。いや、そんな人が日本人で有権者9千万人のうち1万人くらいいたっていいんですけどね。
 こういうのをよくいって「抽象的」というのですが、甘やかしてそう呼んではいけない。「抽象」という言葉は、解明目的へのルートが確保されていることを前提として使わなければみそもくそもになってしまう。こういうのは「現実遊離の論理」というのです。
 彼ら、アカデミズムで職を得ざるをえない人々は、良心的な部類であってもこうした社会学の伝統に染まって生きざるをえない。

 およそ読者諸氏は、「われわれ」という言葉遣いには2通りの使い方があることを想ってみてください。
 一つは、話し手が「われわれ」に対して共同性的な感情を持っている場合です。
 都知事石原が「われわれ日本人は日の丸をみたら起立しなければならない」と表現したときに、「私」は石原の「われわれ」に私が含まれているなんてさらさら思ってはいません。
 または私が「われわれは銃弾で一人以上の子供が腹を千切られ死んでいくのが分かっているときに、イラク侵略賛成というわけにはいかない」というときに、都知事石原はまさか自分が私の言う「われわれ」の中にはいっているなど思いもよらないでしょう。

 一方、社会学者のいう「われわれ」はそうではない。それは「一般的人間」と同義です。
 個人行為主体から離れた、いいかえれば「自分」から離れた社会学者にとって、人間は、抽象的なといえば聞こえはいいが、実は誰が決めたかもわからない、不思議な生物です。彼らは、生きている人間ではなく、概念を構成する何かなのです。
 概念は一度構成するとその順番を変えるだけで間違った結論が生じます。はじめの構成にある順番はただの相互関係としてなんとか現実に似ているにすぎなかったのに、順番を変えたときに概念は自立して因果連関が生ずるからです。
 例を挙げます。

【「日本は民主制だ」そう述べたとき、人間は、民主制を構成するモノ、それ以外のものではないのです。彼らは必ず投票しなければならない。もちろん70%の人は投票しないでもいい。しかし30%の「人間」は投票するのです。
 さてなぜ30%の彼らは投票するのか。それは彼らの首長を選ぶためです。】

 この200字ほどの現実に似ている言葉が、しかし、今度は社会学者を拘束するのです。
「人は彼らの首長を選ぶために投票する」。なにしろこれはさっきの言葉を入れ替えただけです。
「じゃあ、なんで残りの70%は彼らの首長を選ばないのか?」
 この、次の100字ほどが、彼らのいう「論理的な」次の疑問です。

 ちょっと待っておくれよ、です。もともとほんの1%以上の誰も、自分の首長なんて選んでないんだったら。そんな一般的な人間なんてこの200字+100字の、コトバだけの決めつけにすぎないんだったら。
 まあ、たしかに都知事選挙は結果として「政治学者が定義する」首長を選んではいる。しかし、それは私の現実ではない。私は、たとえば東京の首長ではなく、都知事という、どうでもいい漫談師を選んだに過ぎません。
 あるいは、もちろんある人は都知事というどうも政治を良くしてくれそうな人を選んだでしょう。じゃあ、それは彼や彼女の首長か?
 そんなことをいうのは政治学者か政治社会学者だけの妄想です。なにが首長なものか。「あたしが選んだのはただの都知事よ。都知事ってよく知らないけどね。」
 そうした、少しずつ違う論理と現実との差が、実は圧倒的に、この社会を生きて行為する人間の立場とは離れている「論理」の現実なのです。

(なお、どうでもいいことですが、この論文にある彼のマルクスの資本論の文言の解釈は誤っていることも一言いっておきます。
 もちろんどんな解釈をしようがそれが進展した真理が掴むきっかけとなればそれでもよいとは思うので、そのことを非難追求する気はありません。ただ、大澤氏をめぐる批判にも反批判にもマルクスを巻き込まないようにいっておきます。)



【6月分】

『因果連関の科学と歴史的世界の叙述の学』
  
今月は、論理で使われる概念の有効性について;その1です。

(本日の課題)

今回は、社会学で多くの研究者が採っている方法が、論理の成否とは違った次元で進められている点について、です。だから、その論の本体は、論理が間違っているとかいないとかいうこととは関係がない、と。あくまで「論の本体は」ですが。
対象者は、ジンメル、デュルケーム、ウェーバー、有賀喜左衛門です。
「論の本体」にある論理については次回。

さて、学問の中にもあまり論理を云々してもしょうがない話もあります。それは、社会の状況をそれを知らない人に伝えることがテーマになっている場合です。
たとえば、あなたがどこか温泉に旅行に行ったときのことを人に話すとします。
「いい温泉だったよ、草津の湯のようだった」
というのに一緒に行った友達が「そんなことはないよ、あれは蔵王の温泉のようだったね」といったとします。
さて、どちらが正しいか、それはある程度までは論理的ですが、ある程度まではどちらも正しいものです。そして、聞いている者はどちらが正しかろうと「なるほどかなり硫黄の臭いのするところで、温泉らしいとこなんだな、今度行ってみよう」と必要なことがわかります。
だからそんな表現なんてどうでもいい、ということではないんで、伝える者が「その温泉はさ、脱衣所があって服を脱いで入ってあったかくってさ、とても体があったまってよかったよ」といっても温泉の情報は何も伝わってません。こういうときは「草津みたい」とかの一語で伝えられればそのほうがよいのです。

こうした社会の状況をそれを知らない人に伝えるための学問を「叙述の学問」といいます。
社会学では、「記述科学」と呼ぶのですが、そういうと必ず「私の社会学は記述科学ではない、説明のための科学だ」と反論が出ますのでやめておきます。でも説明のない記述科学なんてないんですけどね。それじゃ「資料」ですよ。

まあ、ということで、ジンメル、デュルケーム、ウェーバーがこうした叙述科学の代表となります。

なんて学生諸君は覚えないように。試験で書くと0点をくらいます。

(課題の前に、叙述の学の説明の自由さとその限界について)

こうした叙述の学においては、先ほどのように説明の基準は自由です。
ある温泉が○○である、と規定するときに、ある温泉は
 ・硫黄泉であるか
・露天風呂があるかないか
・出る夕飯がご馳走かどうか
それらのどれでも自由に規定することができます。
社会科学に従事する人々のうち幸せに暮らしている人々は、このような例を考えて、社会科学全体の概念というのは、かくも自由なのだ、と思ってしまいます。
しかし、それは、対象が叙述の学だからです。そういう人は因果連関の学には入れない。ひとたび人が人間の行為を通した因果連関の学の領域に立ち入るならば、概念はその因果の解明のために、初めから規定されてしまう。それがわからない、あるいはわかりたくない。
「ひとたび人が温泉を掘るとするならば、何をもって温泉と規定するか」。
課題とはこういうものです。
この課題の例は、わざと「一見」曖昧な表現にしてあります。
幸せな人は言うでしょう。
「あれえ? でもこの人ってさあ、なんで温泉掘るのかなあ? いろんな理由が考えられるよ。その理由によって温泉の概念なんて変わってきちゃうよね」
そう、その人はひっかかった。だいたいそういうんです、幸せな人は。本当は一つしかない行為の理由を、わざと、知っていながらごまかそうとする。
温泉なんて掘って旅館建てて儲けようとするから掘るんだよ。バカ。
世間の「客観的な」学者などみなこのたぐいです。それも知らないバカか、知っていながらごまかそうとするエセ学者か。
とにかく、温泉を掘ろうとする人間による温泉の定義は、「温泉旅館に必要な湯量と必要な湯温と必要な成分を持った地中からの湧き水」です。この定義にはなんの自由もないのです。それが社会科学なのです。
哲学者ならどうせ言葉の遊びが職業ですから「あれえ?」って言い返してもいい。世間には家の庭でバーベキューパーティーをしてるときに友達とこの庭から温泉が出るか賭ける人もいるでしょう。この場合とにかく温かい水が庭から出ればそれはこの友達間では「温泉」でしょうね。
しかし、か、だから、か、社会学者である幸せな人も、そのような例を自分の「社会学研究書」に書き連ねて研究にするのです。(なんの?)
嘘でしょって? 嘘と思いたいですよ、僕だって。
ま、ま、やめましょ。今は別に宮台その他の批判をしているわけではない。

さて、もちろん、根本的にはこの事情はすべての人間行為に該当します。
温泉を楽しむという行為をする人間には、先ほどのようにいくつもの選択肢が出てきます。しかしそれも「自由」ではない。叙述の学でさえ、それを読んで楽しむ人間の関心によって概念が規定されている。
温泉の規定には、湯を楽しむか、飯を楽しむか、近ければいいか、その他指で数えられるくらいの実践的根拠しかありません。でもそのくらいはある。それが、ブルジョワ社会学にさえ押し寄せる「論争」の発生根拠です。関心によって概念が異なってくるのを、「オレの概念が正しいから結論はこうなる、オマエのは変だ」という、まあ「論争」ですね。
われわれ社会科学徒にとってみれば、そんな趣味の問題はどうでもいいのですが、それにしてもそんな表現の選択の趣味的世界の中で「なぜ彼はよりによってその主題を選んだか」ということの解明が普遍的な課題となります。それこそが社会で確定せられる「自由のない」拘束、すなわち社会による、あるいは人間の相互作用による、あるいは社会が持つ統合機能としての? どう表現しようといいですが、社会学で探求されるべき課題なのです。

(叙述の学と論理)

 本題です。
 人間の情報の認知要求は2通りあります。
1.客観的世界環境の認知、
2.その認知した環境変化の方法の認知
です。
 人は自分の環境がどんなものであるかを知らなければなりません。
 知って、何だ、そうか、とそれだけで終わってしまう場合もあります。これが叙述の学です。
 ただ、それだけではまずい場合、その環境をどうにかしたいと思い、その方法を探求します。
 人はまず知らないことを知らなければなりませんが、それで終わるものは博物学であり、人間についていえば、なんら現状変革の必要のない問題についてです。
 人間は環境を変える必要を持って、「科学」を生み出したのです。物体的環境を変えるために自然科学を、そして社会的環境を変えるために社会科学を。だから、人間において科学とは、あくまで環境を変化させる方法を含まなければならないのです。

 また脇道に。
 で、人は言葉を扱うときに、その単語の中に、自分しか込められない感性を込めて扱います。
 たとえば「日本の家族」というせいぜい3語からなる単語の中には、ほんとは溢れかえる感性がみなぎっています。ある者は「日本の家族だよ。だから、私が生きてきて 君も生きているはずのこの過去に時間だよ、この過去の時間をこう表現するんだよ」と言外に述べ、ある者は「日本の家族だよ、だから、世界の家族にも当然該当するような要素を抱えている日本の家族だよ」と心の底で叫んでいます。
 従って、「日本の家族」を考えるわれわれは、人々のそれぞれの思いを切り分けないとならない、がそんなことは無理だ。かくて、ここにどちらが正しいわけでもない、あるいはどちらも正しい、不毛な論争が発生します。
 このように叙述の学の論理、というより、叙述はある現象を言葉に置き換えて人に知らしめるところに真骨頂があるので、論理がどうじゃなくて「概念」さえ提出できればいいわけでね。で、叙述の学の概念ですが、それはこのようにある程度自由です。
 それはそれでいいすけど、こういうものは「歴史的個性」の学と名付けるのが誤解がなくていいと思います。

 ところで、われわれ社会科学は現実の変革をその存在意義としていると主張している者にとっては、変革対象は、普遍的なシステムの一として把握されなければ、その理論内で変革することはできません。
 社会の構造を変えようと欲する者は、その変革方式が普遍的なものでなければならないために、初めから歴史的規定性の多すぎる把握は。いかにその把握が感性豊かで個人の感覚にフィットしようとも、これを自分の力で行為として取り扱うことはできないのです。
 そういえば、昔、吉本隆明が有賀喜左衛門と喜多野清一との「家」の定義を比べて、有賀の方がよいと書いてあったのを思い出します。
 吉本らしいといえばらしいのですが、結局、吉本の歴史意識の弱点だなと思いました。
 「家」の定義の件で言えば、その現実的感覚の如何に関わらず、ウェーバーをなぞっただけのような喜多野清一の定義の方が、普遍的であるという意味で、より変革に資するといえます。

 たとえばパソコンの色パレットなどをみると、黄色なり緑色なりが次第に変化していく様が見えます。そのある部分までが黄色だと教えてもらえばずいぶんと色の理解は進む。その色パレットのある部分を指定すればその色も使うことができる。これが「歴史的個性」の学です。
 しかしわれわれはなぜその色パレットが出現しているのか、理解はできない。したがってどうすればその色を作れるのか、あるいは変えられるのか、を知ることはできない。
それは因果連関を司る科学の役目です。
 まあ、社会学の実証に生命を賭けた人々は、「そんな世迷い言の理論なぞないほうがましだ」と言うでしょう。その気持ちの幾分かは私ににもわかります。それにもかかわらず、社会学とはそれを越えた理論だ、と私にはいう権利があると思います。疑う人は変革の機制をお読みになり批判してください。(まあ社会学が多くの社会学教授のなりわいのように、社会科学じゃなくてただの実証研究範囲の呼び名だっていいんですけどね。あたしゃ学者じゃないから)

(例の提示)

 が、まあそれはそれとして、叙述の学として人は客観的な世界環境をみんなに見せます。そのときにその世界に反発すべき状況があった場合、叙述者は、自分の行為論的関心からこの状況のよってたつ由縁やその改善策を提示したくなります。(デュルケーム)
 それがなければその本は売れませんが、だからといってその当否は50年もすればその本の価値から除外されます。
 ついで、叙述者が付け加える感想に疑問を持つものが当然出ます。
 その感想を導く方法に疑問を持つ者は、その疑問を方法化したくなります。(ジンメル)
 最後に、方法化により措定されたものは、これを現実にあてはめたくなりますが、それをすると、どうしても我田引水、自分の都合のいいように理論の結論をねじ曲げようとする者がでる。というより初めから無理なことをしてるんだからどうしてもそうなる。
 (これはくだらないから例に出しません)
 彼らが権力と結託すると最悪です。
 こうしてウェーバーのようにこれに対抗して科学の客観性を守らなければならなくなる。

 また、それ以外に、ある客観的世界環境から抽き出されたパターンについて、そこで満足するという、禁欲的な態度もある。(有賀喜左衛門)
 
 叙述の社会学の起源はこのようにパターン化されます。
  個別に見てみましょう。
 

1.デュルケーム

 たとえば種々の社会事象のデータを集め、これを解説し、読んだ者に新しい知識を与えることは社会学的だといえます。学史的に代表するにはデュルケームがいいと思います。
 もちろんデュルケームが有名なのは残した理論ではありません。だってもう誰も範としてないし。そうではなくて、資本主義がいまだ国家内外を席巻していない当時(1900年前後)において、社会を改善しようという主体的な熱意と学問上の努力が、その学の生命となり、100年たった今も、学生が十分に検討する素材として生きながらえているわけです。
 さっきから私は叙述的な学をバカにしているわけではなくて、それはそれで大事だといっております。
 そして、もっと大事なことは、現在においてもこうした実証的研究に従事する社会学者の多くは、現実に対して誠実であり良心的だ、ということです。理論屋に比べて。

デュルケーム、E.,「自殺論」宮島喬訳、中央公論社、1985。(p15)

「さて、それとは反対に、いわば本書の各ぺージからは、個人は、個人をこえたひとつの道徳的実在、すなわち集合的実在によって支配されているという印象がでてこないわけにはいかないとおもう。各民族には固有の自殺率があること、その率は一般死亡率よりも変化しにくいこと、それが変化するときには各杜会の固有の増加率にしたがうこと、およびそれが、日、月、年のなかの各時点でしめす変化は、もっぱら杜会生活のリズムを再現していることを知るとき、また、結婚生活、離婚、家族、宗教杜会、軍隊などが、ぱあいによっては数字でも表現できるような明確な法則によつて自殺率に影響を与えていることを確認するとき、人びとは、これらの事態や制度.を、力も効果ももたない、なにかしら観念的なこしらえものとみることをやめるにちがいない。むしろ、それが生きた、効果のある実在的な力であることを感じるであろうが、それがどのように個人を規定するかをみることによって、それが個人にもとづく力ではないことも十二分に証明される。かりに個人がこの力を生みだす結合に一つの要素として参加するとしても、この力が形成されていくにつれて、それは個人の上に拘束をおよぼすようになる。こうした条件を考えれぱ、杜会学がいかにして客観的でありうるか、また客観的でなけれぱならないかが、よく理解されよう。というのは、杜会学は、心理学者や生物学者が取り扱っている実在におとらない明確な確固とした実在を、対象としているからである。」(P15。)

 まあ、その時代は、まことに神学的な人が多かったわけで、それに反対しただけのことです。今でもいますけどね、他の学問分野には。
 
2.ジンメル

 実証的な研究は、個別の事象に口を出すとどうしても常識的になる。
 そこが証明されていなければ科学ではない、とまあ考えるものです。
 といって、社会総体を捉えるすべを持たない哲学=数理系の人間だと、小集団の社会的交渉に対象を限らざるを得なくなる。こうして形式社会学が生まれ、この代表はジンメルです。
 ただ、論理学が理論の論理的整理に終わるにすぎないのと同様に、形式社会学も、社会科学たることの証である因果連関の解明に参加することなく、それよりも社会の実証的な形態を私たちに見せてくれることもできないものです。
 といえばボロクソですか。すいませんね。私まるで読む気にならないんですよね。
 いや、表現上の整理という点でわずかに学に寄与はしてます。
 
ジンメル、G.、「社会学の根本問題」阿閉吉男、社会思想社、1966。(p24)

 昔の人は、話をまとめるということを知りませんので、引用しづらいですが、知らない人は読んでもらって、知ってる人は思い出してください。

「(社会の恒久的な相互関係、つまり国家と家族、ギルドと教会、階級と目的団体)からは、経験のなかにあらわれる社会の生活は構成されることがまったく不可能であろう。つまり、無数の微細な総合のもたらす広範な影響がなければ、そうした社会の生活は、多数の非連続的な体系に分解することであろう。」
率直に言ってそうですね。だからジンメルは、具体的な個人間の相互作用を取り上げ、それを抽象して、その抽象を具体的な社会生活、具体的な歴史過程の再構成に適用させよう、というのです。

 いや、社会学史家なら、こういう説明は引用で作り上げた方がよいのでしょうが、人間て、たまたま今日を生きてるわけで、今日って、具体的に3年5月7日午後11時の私の今で、どうでもいい過去の人間のためにそこまで人生を費やす気はありません。ささいな反論はあるでしょうが、それがささいかどうかは読者の方が実際に本を読んで決めていただけばよいかと思います。
 
 ただ、こう否定的に言っているからと言って私が形式社会学を否定していると思われては困ります。
 要するにジンメルは方法において間違っているのです。
 形式社会学は、対象を小集団、その他の「社会的交渉」に限ったのが誤りだったのです。
 そんなものに限らず「もっと徹底して限ればよかった」のです。集団化ないし部分社会体系化すればそこには絶対に全体社会の規定性が入ってくる。そうではなしに、分析基準を個人そのものにおいやること、それがパーソンズ系の行為の理論ですが、まあそれは今はやめておきます。
 

3.ウェーバー

 なぜか、日本ではマルクスのように有名な人ですけどね。

ウェーバー「社会科学および社会政策の認識の『客観性』」出口勇蔵訳、『世界の大思想:ウェーバー』所収、河出書房新社、1970。(p57)
 
「いずれにせよ、価値を信ずるという仮定のもとではじめて、価値判断を外部にむかって主張するという試みには、意味があるのだ。これらのことは正しい。しかし注意Lていただきたい。このような価値の妥当を評価することは信仰上の間題であり、同時にまたおそらくは、人生や世界をその意味にかけて思弁的に考察し解釈するばあいには、それもひとつの課題ではあるのだろうけれども、思弁のかわりにいとなまれると主張されるような意味での、経験科学の対象ではないのである。」

 実は、この引用部分は、同書の中では唯一問題のない箇所です。あまりにもこの人は間違いが多すぎて。この場でいうと長くなりますのでいいませんが。まあ、問題がないってことは、ウェーバー崇拝者にとっては些末な引用部分というところでしょう。
 ウェーバーにとって問題なのは、いかにしたら形式主義的な無意味な定理」を排除して、歴史的過程をもった人間の社会についての法則科学が成り立ちうるか、ということでした。
 まあ専門家ではないので本当かどうかは知りませんが。
 もっとも私がしつこく社会学は因果連関の科学だ、という元は、このウェーバーをめぐる緒論の遺産ですから、ご当人はいくら批判されても本望なことでしょう。
 さて、そこでマルクスを理解できない、あるいはしようとしないウェーバーにできたことが、「親縁性」や「客観的可能性」といったあいまいな概念を使った人間の「理解」への預託でした。
 ウェーバーの根底にあるのは個人の行為が社会を変えうる、という、そのときの後進国ドイツ特有の事情かどうかは別として、信念ないし思いこみですが、苦し紛れのこの社会科学解釈にそれ以後の社会学者は自分の理論上の存在意義を賭けてきたのです。
 本来、社会学的にはそんなことを思わせた世紀末ドイツの社会ー政治体制の分析が、云々と続く始まらなければならないのですが、もっと事態は切実だったのであり、これは私以外には何一つ理論的発展のない今も、変わりません。  
ウェーバー,M.,「ロッシャーとクニース」松井秀親訳、未来社、1988。

4.有賀喜左衛門 

 ちょっと変わった選択ですか? このように禁欲的に実証研究を行って、地域的社会体系についてそれ以上の政治的、文化的な価値に言及しないという学者は、外国にはめったにいないんですよね。歴史家にはいるのかもしれませんけど。日本にもめったにいません。(こんな人知らない? 知らなくてふつうですから気にしないように。みんなが知ってる「大御所」の人たちは、今でもそうですけど、一方で外国理論を紹介しなければいけませんから自分の理論が作れないんです、と、なんて優しい私。まあ社会学者に悪い人は少ないし)。知らない方は、文化人類学から規範的価値付与を抜いたものと考えてください。私の理解では。
 社会事象の存在に余計なことは言わない。歴史ー空間的個性を再構成することを学問として主張する人たちです。

有賀喜左衛門「日本家族制度と小作制度」『有賀喜左衛門著作集1』所収、未来社、1966。(p31)

「……そこで小作慣行の究明が従来行われたような一部の科学的立場においてのみ行われることは、小作慣行そのものの究明からみても犬きな発展を遂げることはできないだけでなく、その限りでは小作慣行が農村生活に持つ真の意義をも解明することはできない。何となれぱ小作慣行を通して示される民族的性格は、単に経済事象や法律事象にのみ固着Lているものではなく、他の多くの科学的立場の存在に関する十分な理解を伴うのでなければ、経済事象や法律事象の究明をさえ浅薄なものとする恐れがあるからである。従って小作慣行が各種専門の学者によって、その立場においていっそう追求されることが必要であり、それらの成果が相互に影響し合うことによってその研究が精細となる。しからぱ私はいかなる立場に立つか。私はこれを杜会学的立場において研究しようと思う。杜会学に関する私の解釈はこの章の終りにおいて述ぺるが(二四七頁)、私はこれをもって小作慣行を説明し尽し得ると思うのではない。何となれぱ私は杜会学を特殊科学としてみるからである。……」

 さて、いままで4人の人を代表に、社会学を巡る方法へのスタンスをあげてきました。
 こうした人間の違いは、しかし、方法を巡っているだけです。現実の表現について、方法的個人主義だの、社会実体主義だのといったところで何も違いがでる訳ではありません。現実に向かうときはどの論者もその時代の常識で向かうだけ。ある者はおめでたく、あるものは苦労人だ。
 そんな感覚の差異の中で出る違いは、それこそ私が次回に行う論理の誤りの大小です。どちらも間違っている。まあ、合ってるといえば合っている。これは視角の差異といわれますが、いわゆる視角の差異とは、実は抽象の自由勝手さのことです。
 それらは操作主義的観点の欠如に、抽象の気ままさを加えたものです。
 操作主義なんていうと評判が落ちそうですが、でももともとそういう実験主義的意識が欠落しているから、論文の最後に適当な指導、助言、展望を加えてお茶を濁して平気な伝統が作られる。
 もっとも社会も社会学者にはそれ以上欲しませんけどね。だからといって職業してるんだから、そんな展望屋になることに知識売買業者としての価値を見いだして欲しくはないものです。

 で、まあ率直にいえば、彼らは取り上げるのには値しない。それは彼らが論題にした諸事情が、歴史的な一時期に当てはまるにすぎないからです。
「いやそんなことはない、彼らが使った方法は不変だ。」
 そう、不変であります。
 そしてその不変の方法を使ってなされた仕事というのは、やはり今にしか適用し得ない、あと十年かそこらの生命しかないというのも不変の事情であります。
 だから悪いというわけではありません。それは歴史的叙述の宿命でありまして、別に誇ってもいいことです。私が言いたいのは、だからここで取り上げる必要はない、ということで、ただ、有名な人たちだからそういう歴史的叙述の学の代表として挙げた、というだけです。

 まあ、昔には昔の状況がある。そんなやむを得ない状況の中で社会学の基礎を築いた者たちがそれ以後の者たちから賞賛されるのは当然でしょう。彼らの著作に残るいくつもの誤りを越えてそれらの意義はあるわけです。まあ、そういうことで。あとは言っても虚しいから。
 なにが? 「それ以上は意義なんかない」っていっても学者の現実生活には意義があるから。虚しさが本人に伝わらない。
 ここから先はすでに論理や理論の問題ではなく、学的報酬の体制の問題です。
 たとえば大学教授の職、それに連なる学的業績の評価、出版上の便宜等です。
 理論を横流しして糊口を得る者は社会学を学ぶ者に過去の人材を賞賛して事細かに教えるでしょう。
 なんの根拠もなくマルクスと対比的だというだけでウェーバーは賞賛され、若い者たちはそれにより、あたかもウェーバー流の上部構造重視や人間の信念重視が社会科学上根拠があるとでも誤解し、自分の説にちりばめ、それを読んだ「より若い者」はまた、ウェーバーを使っている若い者の説が正しいかのごとく誤解するわけです。
 科学の正邪には、こうした学的報酬の問題があることを付け加えておきましょう。
 
 
 
【7月分】

「論内における事実と結論の乖離」

 さて、5月には、論理を立てたときの誤りやゴマカシについて見ました。
 6月は、ちょっと離れて、事実を伝える際の「自由な」物の言い方について、世間には事実知識を伝える(だけの)叙述の学もあることと、その自由さの限界について、見ました。
 今回は議論の全体の構成について。
 ある議論が正しいかどうかは、多分、その論理を見ればいいと思うのではないでしょうか?
 もちろんそれは違うと私がいうわけではないのですが、現実には、大きな影響力をもって評判の高い社会科学系の「論文」というものはそうなっているわけではありません。
 それらは、現実の知識の提示と、その知識に関係はあるが知識部分からの論理的な結論ではない、「主観的な」しかし社会的要求度の高い(読者の価値的に有意義な将来的行為イメージを与える)展望を述べた自称「結論」からなっています。
 これは、優れていようがいまいが、また社会科学、自然科学を問わずに、「論文」がマスメディアに登場する際にとられる一般的な詐欺的手法です。
 その前段の知識的部分が精緻であれば精緻であるだけ有効な詐欺です。
 自然科学でも事情は同じですが、自然科学での特徴は、自称「結論」が内容とシンプルに区別できますので特殊なもの以外は詐欺とよぶと言い過ぎだということです。特殊というのはそれでもかなりあって、最近ので大きいのは「利己的遺伝子」なる「結論」です。こういう価値的な物言いをしてはいけないったら。まったく売れりゃあいいんだから。
 かたや、社会科学の特徴は、前段の事実の知識の部分に、少しずつこれらをまとめて概念化する用語をいれざるをえないところです。
 
 
 今月は、戦後知識人3巨頭、川島武宜、丸山真男、大塚久雄を取り上げます。
 若い人たちはもう知らないかもしれませんが、この3人の業績は「いわゆる戦後近代主義社会科学の最高の成果群」(筒井清忠京都大学教授)だそうですから、悪口を言ってもかわいそうではないでしょう。

1. 丸山真男

 丸山真男は、戦後すぐの時代に、「それまでの(半封建的)社会→そこでの遅れた社会意識→遅れた政治家と遅れた大衆→反動的国家意思決定」という図式で、社会意識による政治評論学を確立した旗手です。
 この評論パターンは、国家における軍事=暴力=権力意思決定を体感している人間による実感主義評論として左翼にも取り入れられ、長い間その後の社会評論の主流を占めることとなります。「遅れたエリート主義」というか、エリート層がまだ残存している頃の、戦前エリートへの心情的共感=反感が為したイタチの最後ッペのようなものです。

丸山真男「超国家主義の論理と心理」『現代政治の思想と行動』所収、未来社、1964。
(未来社が出版した重要な本って多いです、くだらないにしても。変換で未来社が出ないんで、あ、また出ないと気づくんですが。すごいですねえ。でも、もうつぶれたっけか)

 さて、本書の場合、自称結論が先に出ています。でも事情は同じです。

P12
「……国民の政治意識の今日見らるる如き低さを規定したものは決して単なる外部的な権力組織だけではない。そうした機構に浸透して、国民の心的傾向なり行動なりを一定の溝に流し込むところの心理的な強制力が問題なのである。それはなまじ明白な理論的構成を持たず、思想的系譜も種々雑多であるだけにその全貌の把握はなかなか困難である。是が為には「八紘為宇」的スローガンを頭からデマゴギーときめてかからずに、そうした諸々の断片的な表現やその現実の発現形態を通じて底にひそむ共通の論理を探りあてる事が必要である。これはもとより痛ましい我々の過去を物ずきにほり返す嗜虐趣味では断じてない。けだし「新らしき時代の開幕はつねに既存の現実自体が如何なるものであったかについての意識を闘い取ることの裡に存する」(ラッサール)のであり、この努力を怠つては国民精神の真の変革はついに行われぬであろう。そうして凡そ精神の革命を齋らす革命にして始めてその名に値するのである。」

 つまり、日本の後進性を明らかにして個人が自覚的にこれを克服しなければ国民精神の真の変革は行われぬのであります。
 小学校の先生ですか。
 さすがに丸山先生も戦前と平成15年の日本の民主性度を同一には思わないでしょうけどね。じゃあ、その間個人が自覚的にこれを克服したんですかね。
 いや「そうだ」っていう人とはアホが移るから付き合わないだけですけど。オレそんなヒマないし。

p25
「……こうした自由なる主体的意識が存せず各人が行動の制約を自らの良心のうちに持たずして、より上級の者(従つて究極的価値に近いもの)の存在によつて規定されていることからして、独裁観念にかわつて抑圧の移譲による精神的均衡の保持とでもいうべき現象が発生する。上からの圧迫感を下への恣意の発揮によつて順次に移譲して行く事によつて全体のバランスが維持されている体系である。これこそ近代日本が封建杜会から受け継いだ最も大きな「遺産」の一つということが出来よう。……」

 こっちは先ほどとは逆で「相変わらずいまでもそうでしょ」って言われる部分でしょうね、おそらく。だからさ、どこが究極的価値だっていうのさ。どこが全体のバランスに貢献してるのさ。ある社会体系がバランスしてるのは当たり前でしょ。 
 まあなにが発生してもいいんですけど、問題は何の根拠もなくそういってるってことです。何の社会学的実証も。
 それで現実に合ってりゃさすがな洞察力というところですが、合ってるのは日本に戦前も戦後もシステムが存在しているってとこだけです。
 

2. 川島武宜

 さて、このような社会評論であたかも理論のごとく扱われるのが「洞察」です 。
 洞察の本体は、現実を統合して表現するただのアイディアですが、それが現実をよく見ている者の「らしい」一般化に肉付けされるとこれは立派な「理論」とみまがわれるものになります。

 実際、理論の根元というのはそういうものです。
 ただ、根元はそういうものですが、理論というものはそれと一緒ではありません。理論とは、その根拠が常にシステマティックに示され、現実との統合がなされているときに初めて成立するものです。
 川島の場合はじっさい洞察が「本質を突いている」のです。しかし、洞察はいくら合っていようとそれを根拠立てなければ、いくらでも「歯止めなしに応用の利く」、すなわちデタラメな、しかもある意味現実と合っているので中には良心的に擁護する人間も出る、はなはだ扱いにくいデマに成り下がってしまうのです。

 また、根拠はシステマティックでなければいけません。
 全体的な社会システムから部分的な体系を取り出し、その下位体系における現象を「因果連関的に」説明するなんてできるわけがありません。人間行為を規制する暴力や消費物資は、少なくとも原始社会以後においては、全体社会のものだからです。
 これを無理してしようとすれば、下位体系にアプリオリな「原理」や人間の意思、思想、価値観をあたかもそんなものがあるかのように取り上げるしありません。それらは、生きている人間にとっては隣の人間に実際「あり」、個人を拘束しているかのような気がするからです。
 しかし、実はそこにあるのは「法」や「警察」「兵士」等の直接的暴力を、また村落共同体の生産関係的拘束を、体感し、現実の指針にしている個人にすぎません。

川島武宜「日本社会の家族的構成」『日本社会の家族的構成』所収、岩波書店、2000。

P18
「だが、このような家族外の世界においても人は多くの結合関係をつくる。このような「無秩序」の世界においては、人は自らを頼りのない孤立者として意識する。典型的な資本主義ではなかったわが国の経済的社会的諸条件の下においては、人は何らかのしかたで他からの庇護を求めることを余儀なくされる。そこでは、単純な商品交換的な結合ではなくして、より継続的な人的結合が必然となる。だが、そこでこの結合をつくる人間は、家族的結合しか知らぬ人間である。かれらは、「家族的」にしか人の結合関係を意識することはできない。
 それほどにわが国においては家族生活はわれわれを強くとらえている。かれらは、或いは家長的な権力者に頼りたがり、或いは家長的権力者になりたがる。言わぱ第二の親子関係、すなわち、「親分子分」関係はかようにして必然性をもって作りだされる。……」

 もちろん川島の場合には丸山とは異なり戦前的社会科学=マルクス主義の教養があるので、そうバカな結論を出すわけではないのですが、その社会科学的教養を取り去り彼の議論立てを素直に考えば、誤りだけが残ってしまうのです。
 単純な話、家族が個人行為者の社会認識の根底になる、というのは社会科学的教養です。だからってそれは日本的「非典型資本主義」に特徴的なわけではない。特徴的でもないのに特徴的だと述べることは、明確に誤りです。
 ついでにあまり明確でない誤りも述べておきましょう。家族は個人行為者の社会認識の根底になりますが、同時に、家族以降の諸社会関係も、それが今までとは違うと認識される限りにおいて、個人行為者の社会関係の根底になっていく、ということです。人間は新しく入った社会関係において、これを自分のものにするため世界認識を修正します。
 当たり前だな。
 でもこの当たり前のことって日本戦後社会(科)学の洞察の伝統にないため、本読み学者の理論には、または実証研究の仮設や結論には登場しないのです。これらの誤りの伝統も、根は川島その他のその時分の社会事象の非歴史的洞察にあるといえます。

P25〜26
「……(民主的な)法改正は、なさるべきことのすべてでは決してない。それはただ、民主的家族生活の形成に対する障碍を除くという消極的意義をもつだけである。われわれにとつて問題であるのは、生活の現実において非民主的な家族型態・その原理をなくすこと、民主的な家族生活を現実のものとすること、でなけれぱならない。そのためにはつぎのような一定の客観的条件を必要とする。
 すなわちその条件とは、とりわけ、一方では、封建的儒教的な家族制度の基礎であるところの農村諸階層の経済的地盤を排除することであり、他方では、とくに農民の封建的停滞的な生産様式を廃絶することであり、そのためには結局、土地制度の根本的な近代化、および近代的な生産関係の導入・確立こそは、問題解決の基礎条件である。だがしかし、現在におけるわれわれにとつての問題はこれに尽きるのではないことを、注意しなければならない。
 民主主義革命は、決してわが国の絡済的社会的政治的諸条件の成熟によって自生的に内面的必然性をもって起ったのではなく、われわれの外の世界の圧カによってーーそうして、ただそのような意味でのみ、世界史的関連のなかにおけるわが社会の内面的必然性によってーーわれわれに課せられていることの結果、われわれにおいてはまだ民主主義革命の主体的・意識的条件が成熟していない。しかもそれは決して「外から」強制されることもできない。だが、われわれに課せられた民主主義革命の課題は、そのような主体的条件の自生的成熟を待つことを許さない。しかも、民主主義革命はかような主体的条件をもってしてのみはじめて真にわれわれのものとなりうるのであり、ここにわれわれにとってのもっとも困難な問題があるのである。」

 でさ、今って民主主義なのかね?
 民主主義じゃないってやつとは話したくないの。時間のムダだからね。
 で、民主主義だっていうのなら、だれが困難な主体的条件をがんばって自己のものとしたのかね?
 こういうのを、若い人は知らないだろうけど「空語」(くうご)っていうの。なんの条件も考えてないのに威勢だけはいい、カッコづけの発言。

 ねえ、二人ともアホでしょ。
 「偉そうに。そんなこと今だからいえるんだよ」なんていわないでね。いるんだよね、そういう自分の日頃の行いを恥ずかしげもなく吐露するやつ。そういう人ってほんとに自分も空語を言い続けてるの。やめて欲しいよね。みんなおまえと一緒なわけじゃあねえんだよ。
 もっとも、どうだろうがこれらの「論文」が知識層に圧倒的に受けたわけです。
 ここで挙げたのは「結論」だけですから、別に論文の中に新しい知識がないわけではありません。というよりも、もちろん私などは足下にも及ばない刻苦勉励をされて、本やら古文書やらを読み(丸山)、地域社会へ出かけ知識を集め(川島)しているわけです。そうした努力を悪くいう気はこれっぽっちもありません。私が忌避しているのは、空語でありそれが社会科学だと一般の人に思われる社会的影響です。
 実際こうした研究によって、読者は「心理的に」納得できたわけで、それはそれで一つの行為論的な意義を持つとはいえます。そして読者の納得を得られる知的解明の努力は、学問といっていいのかもしれません。別に「科学」だけが学問ではないのです。
 私も長年社会で生きてきたので、そのぐらい学習しております。

 で、今回の教訓は、結論さえウケれば、どんな論文でも名論文になるということです。そして内容と結論は一致する必要はありません。
 さみしい話だ。
 

3. 大塚久雄

 この先生の関係は付録です。
 彼の「専門」が西洋史学であり、私にその専門的知識がないからです。簡単にいって彼は西洋史学を通して、日本の制約的戦前社会を「半封建的社会」として切り捨てようとしたのです。なんてイヤミだね。専門は西洋経済史だっけ。経済史ねえ。どちらにしても私などが知っているのは西洋経済史学ではなく、その他の評論風エッセイです。これが多い。一応マックス・ウェーバーの他称研究家ですから私にすればその関係が目立つわけです。
 で、彼が生きていたとして、彼が岩波新書その他で表現した価値意識、失礼「知識」をいくら批判しても彼には痛くもかいくもないでしょう。私だってそんな彼の傲慢さの想像がつくぐらいには彼を読んでいます。それでは批判のしがいもないというものだ。
 というと、中には「知らないで大塚大先生の悪口をいうな」と思われる方がいるでしょうか。そういう人には、私が「変革の機制」で述べた、100年も200年も(変わる社会の形態を不問にして)人間が同じ意識を持っているという根拠を、明確に提示して欲しいものです。明治時代も今も、日本人は同じ意識を持っているのか? バカバカしい。
 もちろん日本ではその間に大きな社会変動があった。しかし大塚大先生は当該イギリス(その他の)地域にはそんなことがなかったという観点を西洋史学論文に記載していない。私に言わせれば囲い込みその他の共同体崩壊だけで「人間」なんて変わってしまってしかるべきです。それだけで社会学徒としては相手がどんなレベルかわかるというものだ。いや、もちろんそんなことでは「人間存在」は変わらない。もともと思想的風土ごときで人間存在は変わりゃあしません。でもそれじゃあ大塚先生も神様に申し訳がないんでしょう。
 
 ともかく、ここではその他の、しかし名著の誉れ高いエッセイを取り上げます。
 
大塚久雄「近代化の人間的基礎」『大塚久雄著作集 第8巻』所収、岩波書店、1969。

(p171)
「わが国民衆の示しつつある人間類型は……少なくとも近代「以前」的のものであるということは殆んど説明を要しないことであろう。おそらく多くの知識人たちは、この両三年の間にもはや、いやというほど思い知らされたことであろうと想像する。そこには近代人に特有な内面的自発性も見出されない。市民杜会特有の「公平」ーーあの中世的な「公正」ではないーーの特性も見出されない。近代科学成立の基盤たる合理性も見出されない。さらに近代精神を根底的に特徴づけているあの民衆への愛と尊敬、名も無い民衆の日常的経済生活を深くも顧慮するところのあの社会的関心もまたいまだ見出されない。このことはわれわれが少しく注意深くわが国杜会の現状を眺めるならばおよそ自明のことであろうと思う。」

(p172)
「民衆は自己の人格的尊厳を内面的に自覚するにいたらねばならない。そして近代「以前」的な自然法のごときを外側から与えられずとも、みずから自律的に前向きの杜会秩序を維持し、もつて公共の福祉を促進して行きうるような「自由な民衆」とならねばならない。こうした「自由な民衆」によってこそ民主主義は真底から創出されるであろうし、また経済の民主的再建の物質的基礎である生産力もまた自主的に創出されるであろう。いな、こうした「自由な民衆」こそ近代生産カの決定的要因であり、近代生産力それ自身である。」

 自己の人格的尊厳を内面的に自覚した民衆がないと戦後資本主義は発展しないんです。
 だからさあ、なんでこんな人間の書いた本をベタ誉めするやつがいるのかわかんないんだよね。ウソだらけじゃんか。昔の話じゃないよ、今だって生きてるでしょ、ベタ誉めマン。こんな洞察力しかない人の洞察した歴史がほんとなわけないでしょ。社会事実の説明はシステマティックに妥当しなければ、そこで使われている法則や原理がウソなの。大塚にそんなものないけど、要は洞察根拠がウソなの。
 逆だよ、逆。制度によってここまで民主的な人間が育ったのだ。
 その間、運動によって個人の自律性を事実として社会制度に刻みながらね。
 なお、ついでにいっておくと、戦前の「近代以前性」だってカッコ付きです。人間なんて変わりゃあしねえよ。自分のおじいさんおばあさん見てごらん。でも確かに戦前社会は封建的だった。それはなぜ?
 教えてあげよう大塚君。制度が変わったからなの。
 
 なお、この話の次は、キリスト教徒向けの本にはこう続きます。
 『だから、キリスト教ががんばって信者を増やさなければ日本の民主化も人間の「自由」も手にいれられない』って。
 びっくり。なんでこっちの本の結論には書かないんだ? 隠すなよ、大塚。
 
 こんなもん、スキャナーするほどのことではないんですが、念のため原文は同全集PP199〜200。「自由主義に先立つもの」〔『基督教文化』1946年初出〕。
「(自由主義に先立つものは、近代的人間類型の創出である。このためになにをなすべきか。第一に、社会制度の変革、第二に、諸機関における教育。)
 ……しかしながら、筆者のみるところによれば、それでも、「なお一つを欠く」のであって、第三に、わが国民衆の決定的部分が一時期として魂の奥底から揺り動かされるような内面的体験を経過することが必要である。敗戦であるか。それは確かにきわめて高価ではあるが貴重な経験ではあろう。しかし、それでもなく、もっと奥深い、いわば最広義におけるRelisiosistaetあるいはfaith……の獲得にほかならぬ。ーー-それでは現在のわが国の平和的再建のためには、いったい、どのようなRelisiosistaetを必要とするのであろうか、そうした資格をもつRelisiosistaetはどのようなものであるのか、また、歴史上特定ないし既知のRelisiosistaetがそうした役割を現在なおはたしうるのであるかどうか、といったことは主観的・客観的のあらゆる側面から十分に検討しなければならぬし、ある程度までなしうるであろう。が、少なくとも、世界史の現実はすでにわれわれに次のことだけは確実に教えていてくれる。自由主義がただ一回きり自主的にかつ健全な姿で展開しえた近代西ヨーロッパ(北アメリカ合衆国をも含めて)において現実にこの役割をはたしたのは、ほかならぬ、禁欲的プロテスタンティズム、なかんずくピュウリタニズムだったのである。」(なおaeはaウムラウトの代わり)
 
 いいんだよ、彼にしてみれば。
 大塚君は、制度が変わったって日本人は近代的じゃない、というだろうし、自由なんていっても限定的だとかいうんだろうからね。日本の今の「生産力」の高さだって、「自力じゃない。アメリカ従属だ」なんてね。宗教家らしい詭弁さ。そういう話ってさあ、やっぱ真理を追求する学術論文には書けないよね、宗教雑誌は真理なんか関係ないからいいんだよね。そうだよね、大塚君。
 
 
 
【8月分】


 さて、種々の論理の誤り方、正しくなさのパターンについて主なものは挙げました。あとは正しいとか正しくないとかを越えたいくつかの雑多な文章構成について取り上げて真偽についての話は終えましょう。
 なんていうと、私の性格を知っている人は、「なんだ、飽きたのか」と悪口をいうでしょう。
 そうです。もう飽きた。
 人の悪口なんてつまんないからね。全然生産的じゃないし。
 
 もともと一番大きな問題は、こうした「論理」の中での「趣味」の役割なのです。
 次回以降はこの問題を取り扱います。
 つまり、論文やエッセイについていえば、個人のいわゆる価値観が、社会の流行に流されながら、どのように個人の論理を形作りどのように世間で売れていくか、というような問題です。
 まあ、一見するとそうは見えないかもしれませんが。
 
 ま、とにかく今月はその手前までの論議です。

 社会に関する理論の中には、正しいとか間違っているとかを越えた(?)、というか度外視したものがたくさんあります。量的にはこれが一番多い。理論社会学といわれるものの大部分がそうです。
 そういわれるとすっきりする学生諸君も多いのではないかと思います。
 そうです。学校で教わる社会学理論は真偽問題じゃないの。君は学問をやるんならそうならないでね。
 
 大きく分けると
1. 設定された概念について、(多くの場合歴史的な)社会事象を追いかけ、これを整理する。
 そのことで、設定された概念の使用法を理解させ、現在的な事象に概念を適用させる手助けとする。

 この方法の利点は次のようです。
 つまり、概念の適用は、その事象についての超歴史的な認知とセットになっているので、警句的な結論を出すのに役に立つのです。
 歴史的に見るのだから歴史的な見方ができるのではないか、と思われるでしょうが、あにはからんや、その中の共通点を引き出すので概念自体は超歴史的なのです。超歴史的な認知は、社会関係については、せいぜい警句しか引き出せない。
 つまり、歴史的制約がない方が広範囲に適用できるはずですが、説明概念には2通りあるのです。
 歴史的社会関係に関する概念と、歴史的行為主体に関する概念です。
 (私の理論のように)歴史を生きる行為主体に関する概念は、常に歴史の中で、歴史的環境の把握とセットで使用できるのですが、社会関係そのまんまが一人歩きすれば、(社会的に下位の)社会関係を構成する社会背景も、その中で生きる人間の特殊性も不問にされ、結局その結論は、論者が真偽に対して良心的であればあるだけ、「警句」にしかならないのです。(もちろん、無節操なプチ理論家にかかったら明治時代も今も社会現象はどれも同じになってしまいます)
 例を取れば、「人は生理性に不満のない場面では賞賛を取る」という私の立言は、じゃあ2003年のアフリカ・モザンビークでのある下層外資工場労働者の生理性とは何か、賞賛とは何か、という環境とセットで使用するしかありませんし、そのことで具体的なモザンビークでの社会の変動(可能性)も捉えられていくわけです。
 しかし、(本当は具体的に生きた人間が形成したはずの)共通的なある概念、たとえば「文芸的公共性」を語る人間は、モザンビークの下層工場労働者にその萌芽を見いだし、そのうち彼らも政治的公共性を語れるようになれるだろう。というぐらいしかできません。
 そのうちできる、って、だからなにさ。
 別に間違いはないでしょ。間違いとは言わないさ。でもだからなにさ。
 
J.ハーバーマス「公共性の構造転換」細谷貞雄・山田正行訳、未来社、1973。 

 進歩派の有名な社会学者でございます。
 この本では「市民的公共圏の理念型を、十八世紀および十九世紀初期のイギリス・フランス・ドイツでそれが発展した歴史的文脈にもとづいて展開すること」を第一の目的にしてるそうです。

p48
「もっとも、国家と杜会の間の緊張場面で公共性がはっきりと政治的機能をひきうけるようになる前に、小家族的な親密領域から起こった主体性は、いわばそれ自身の公衆ともいうべきものを形成する。公権力の公共性が私人たちの政治的論議の的になり、それが結局は公権力から全く奪取されるようになる前にも、公権力の公共性の傘の下で非政治的形態の公共性が形成される。これが、政治的機能をもつ公共性の前駆をなす文芸的公共性なのである。それはまだ、それ自身の内部で旋回する公共の論議の練習場であり、これは民間人が彼らの新しい私的存在の直接の経験についておこなう自已啓蒙の過程であった。じっさい政治経済学とならんで、心理学は一八世紀に成立した市民特有の学問である。心理的関心は、公衆に開放された文化的作品に接して読書サロンや劇場や、美術館や音楽会などで交わされる論議のライト・モティーフである。文化が商品形態をとり、こうしてはじめて本格的な「文化」(自已目的として現存することを建前とするもの)として発達するにつれて、文化は論議の機が熟した対象として関心をひき、公衆にかかわる主体性がこれについて相互理解を求めることになる。」
 まあ、別になんということもない話なんですけどね。コケおどしと分かってないと読みづらいですね。
 日本の明治時代だと、国家官僚とは別の、以前だったら政治には関われなかった人たちが、髪結い(床屋)談義から成長して、政治とは少し離れたところから政治に口を出すようになっていく(たとえば「我が輩は猫である」の世界ですね)、そんな過程がヨーロッパにもあったんだよ、みたいな歴史の叙述が内容です。
 ならもっとやさしく書きゃいいじゃないか、と思いますが、(「公共性」のような)概念が主人公なので、そのイメージに合わせて他の言葉を並べる必要があるんです。
 たとえば、「大相撲で朝青龍と武蔵丸が相撲をとって朝青龍が突き出しで勝った」というだけの話も、彼らの「肉体」が主人公だと、とたんに難解になります。
 「武蔵丸を前にした朝青龍の肉体には(意思がないのでほっといても前に進んでくれませんので)アドレナリンがみなぎり、筋組織は緊張に備え、皮膚の下の血液が彼の皮膚を赤色に変化させながら細胞を膨張させていく、、、」以下ずっと「肉体」関連概念が並べられるしかないでしょう。ま、そんな事情でできた文章がドイツ国の学問の世界ではカッコイイとみなされるんです。
 ただ、注意しておきましょう。ここでケチがつけられるべきなのは、ハーバーマスその他の「理論社会学者」が、「関係」について概念をうち立てている点なのです。ここでいえば「公共性」という社会的な関係の概念です。
 社会的な概念は、たったの一言の規定で歴史を越えて適用できるものではない。
 この点が非難されるべき点なのです。
 
 先の大相撲で肉体に焦点が当てられるのは、文は難解になるけれども別に非難されるべきことではない。肉体の反応は何十万年のスパンで普遍的と見られるので、闘争の準備段階とはこのパターンなのか、と理解できることができます。その理解は大相撲を越えて、シーザーの世にもナチスドイツの世にも適用して理解することができます。
 もっとも上の相撲の文は私がいい加減に書いただけなので、他には適用しないように。
 で、もう一度しつこくいうと、ただし、関係概念を、歴史を越えて使ってはダメだ、ということです。書いてある間は真偽を越えているが、それを応用したとたんに間違いが発生する。
 ただ実際は、頭のいい人ほど自分で応用することはないのでそれが発覚しません。
 なかには、一冊の本の中で応用しようとするので、論旨がめちゃくちゃになる人はいますが。しかし、それも実際には、アピールのスケールが大きいとあまり非難されないんですよね。困るのは正直な学生だけ。たとえばカール・マンハイムの本のことをいってるんですが。
 
 で、こんな社会の断片から作り上げた概念でも、それを大胆にあちちらこちらに適用しようとする人もいる。まあどうせこういう人も社会の断片に「適用」するだけですから、ただの文章の遊びにすぎませんが。
 「遊びでない」とは、その規定によって解明された社会のメカニズムを、読んだ人が次の自分の行為に適用できる場合のことです。
 「遊びだ」とは、今まで他の人がしていた言い方を使っても、人間の次の行為の認識に特段の差異が見られない場合のことです。
 「資本主義には窮乏化の傾向性がある」という規定は、これを知ってさらなる現代的適用を図れば、これからのアメリカがどんどん2極分解していく過程が分かり、そのことによって、日本はどうしたらいいかが分かっていきます。
 一方、「ゲマインシャフト」のことを「公共圏」と言い換えてもなにも変わりません。
 なんていうと、「ゲマインシャフトではなく、社会に共同性を生み出す諸行為が発揮される社会的な場のことだ」とでもなんでも、言い換える人がいるかもしれません。
 だから、それでは同じなんだったら。以前の言葉で言い換えられるんならトータルに言い換えたら、以前の理論と同じでしょ、って。用語だけじゃあ理論にはならないの。
 今、念頭にあるのは花田達朗(東大社会情報研究所教授)という人で、どうしようかここに取り上げようかなあ、って思ったんだけど、やっぱりムダだから取り上げるのはやめましょう。この人は社会学じゃなくて政治学の人だから。そして私は政治学は社会科学だと認めてないから。社会組織の機能を適正に把握せずに規範的批判をする人は社会科学者じゃないです。
 とまで悪口を書いたら、ちょっと例をあげとこうかなあ。
 同氏「メディアと公共圏のポリティクス」東大出版会、1999。P167。放送倫理基本綱領に関連して。論文の一部。
 「(民放組織が)本当に「言論・表現の自由」の故に「行政の介入」に異を唱えるのであれば、これまで放送事業者やその業界団体がそのトップに高級官僚を受け入れてきたことや……(郵政省によるなにそれの保護を……略)どう説明するのであろうか。それらに対しても異を唱え闘ったであろうか。」
 別に新聞原稿ならいいんですけどね。ハーバーマス論と同じ理論書に載せるには公正じゃない。
 高級官僚が組織に入ろうが国家が補助しようが、民放のこれまでの存在は日本国民にとっての「言論・表現の自由」をある程度実現してきただろうが。なにいってんだ、こいつは。戦前のマスコミの「非自由の歴史」も知らないで東大新聞研の教授をやっているのか。
 まあ、話としては、倫理的規制という「社会的ニーズ」に民放組織が反発するだけでは国家介入も仕方なくなるではないか、という単に気持ちの表明の問題なんですが、まあ私はそんなことはどっちでも興味はないんです。
 で、別に新聞原稿ならいいんですけどね。理論書に載せないでくれ。みんな社会学書と思って読むんだから。社会科学は、ある社会事象が社会的にどう機能しており、その社会的場への次の要素の介入がどういう現実の変化をもたらすかを、事実として述べなければならないのです。今までの民放組織の機能と、そこに新たに行政が監視機関を作る等の要素を加えた場合の社会的関係の、その機能とを、客観的に述べるのが社会(科)学者の努めです。…………あーあ、長くなっちゃったなあ。
 
 
 さて、もう一人出しましょうか、
R.ダーレンドルフ「現代の社会紛争」加藤秀治郎・檜山雅人訳、世界思想社。2001。
 こちらはオーソドックスな現代の大社会学者。「大」というか「地位の高い」といいますか。同じようですが、ハーバーマスが歴史的な形式社会学なのに対して、もっと純粋なジンメル系の形式社会学に近い。あるいはそれそのもの。
 
pp26〜27
「用語だけでは、理論にはならない。だが概念は、それを使って何かを論じ始める前に、使い方を覚えなければならない。ここで導入する〈請求権〉と〈供給〉という対概念にも、これがあてはまる。本書の分析では、しばしばこの対概念を使うことになる。変動に満ちた二十世紀の社会史を理解する鍵として、この概念が用いられる諸章が、特にそうである。しかし、まず必要なのは、例を示したり、理論的に説明したりして、概念そのものを豊かなものにすることである。次に、マルクスや十八世紀の革命との関連で生じてくる、ある理論的文脈に、それを置いてみることである。現代の社会紛争についての問題は、いずれにせよこの概念の助けを借りて定式化できるのである。
 産業革命は、なによりも〈供給〉の革命であった。それによって結局は、国民の豊かさが大きく向上した。他方、フランス革命は〈請求権〉の革命であった。フランス革命は結局、人権と公民的権利という、進歩の新しい段階を画することになった。十八世紀になると、プルジョワジーの利害関心から、この二つの革命は相互に歩み寄りを見せた。そしてそれ以後は、〈供給〉と〈請求権〉は接近するよりは、乖離していった。〈供給〉の党派と〈請求権〉の党派、つまり、経済成長を目指す政治と、シティズンシップを目指す政治とが、相互に争うことになり、今日でもそうなっている。ーーこのようなものが、これまでの考察から引き出される思考のパターンである。」
 
 なんてこともない。産業革命は経済的でフランス革命は政治的だって、高校の教科書にも書いてあります。
 でも〈供給〉と〈請求権〉という言葉に置き換えると、それらの言葉はたとえば「高校改革の現状分析」にも使えるでしょう。
 だから、使えたからって何? それで何がわかるの?
 
 
 対してフランスでは、 
 はやりのところではブルデューくらいから行きましょうか。 

P.ブルデュー「ディスタンクシオンT」石井洋二郎訳、藤原書店、1990。
p306
「以上のように庶民階級は食物を実質と実体の側に位置づけ、いっぽうブルジョワジーは内と外、自宅向けと他人向け、日常と日常外などの区別を拒んで食物のうちにもすでに形式・外観のカテゴリーを導入しているのだが、しかしながら食物それ自体を今度は服装との関係においてみると、両者のあいだには内と外、内輸向けと外向け、家庭生活と公的生活、実体と外観といった対立がやはり見られる。そして実体のほうに優先権を与える庶民階級と、外観にたいする配慮が現われてくる中間階級とでは、食物と衣服にたいする出費の割合がまったく逆になっているのだが、このことは両者の世界観そのものがまったく逆であることのしるしであろう。庶民階級は衣服というものを現実主義的に、あるいはこう言ったほうがよければ、機能主義的に使用する。つまりこの階級の人々は形式よりも実質と機能を重んじるので、いわば支払った金額相応のものを求め、「長持ちする」ものを選ぶのだ。ブルジョワジーは自由の場である家庭ーー女性ならばエプロンとスリッパ、男性であれば上半身裸であるかシャツ程度でいられる家庭という世界にまでも、礼儀をもちこもうとするのだが、庶民階級の人々はそんな配慮はさらさらなく、外に見える服、見られるために上に着る服と、外には見えない服、隠れている下着類などとを、ほとんど区別しない。逆に中間階級になると、少なくとも外で仕事をしているときには(最近はますます女性も仕事をする機会が増えてきたのでなおのこと)服装や化粧などの外観に気を配る人が多くなる」

 あらあらまあまあ、形式と外観だってさ。
 なんでフランスの下層階級と中産階級とでは服装の文化が違うって記述するだけなのに哲学用語が必要なのかねえ。
 まあ、なぜかっていうと、それがブルデュー自身が住んで給料をもらって賞賛されているフランス指導者階級のおしゃべりの仕方だからなのだけど。
 こんなのは事実では合っても真偽とは関係ない。服装文化のルポルタージュなだけ。
 まあ、そんなルポルタージュですが、それは上流の言葉で書かれない限りフランスの知的指導者層には伝わらない。ということは実際彼が主張しようとした事実なんですけどね。
 その事実を、上流に批判的な立場で、上流の言葉で書いたこと。
 この3点で彼は社会学者としての価値を与えられるわけです。


 まあ、大部分の理論社会学はこうしたものですが、次に
2. 論者が新しい社会の全体像を提示して、現実の社会の理解の足しにする。

という方法があります。
 これも真偽問題ではないので、勝手にやってくれと言うか、ふざけたものを出すなと叫ぶか、どちらかの対応があれば充分です。
 たとえばパーソンズやルーマンのような機能主義的社会システム論を指します。
 これらは、たとえばパーソンズに対するように「社会均衡論だ。闘争を無視している」と人がけなすとすれば、なんと言い訳しようとそうなのです。真偽問題ではなく自分で構築したものですから、そんなのイヤだ、とか、変なイメージをまくな、といわれれば、そうですかというしかありません。弟子のスメルサーを見よ、ちゃんと闘争だって扱えるじゃないか、って問題じゃなくって、闘争まで均衡的に扱われちゃあさらにいっそう頭にくるというものです。
 実際、真偽問題じゃあないくせに、学部生レベルの方ではそれを社会学的真理と思いますものね。
  
 で、そんなものは真理にとって意味がないか、といえばそうではない。
 もともと行為者なんて社会全体に対してはアバウトな認識しか持っていない。
 有名大学教授に「社会なんて均衡的なものさ。矛盾ていったってなんとかうまくいくのさ」っていわれれば、「そうか、じゃ、ほっとこ」って気になります。
 逆に有名大学教授が「社会というものは君たちが主体的に作っていくものだ。それは君たちにしかできない」といわれれば「そうか、がんばろう」って気にもなります。
 真でも偽でもない話なのにエライ違いですな。考えるだにバカバカしくありませんか? ただの有名大学教授の趣味に踊らされるなんて。
 
 で、パーソンズは実は私には大事な学者ですので例に挙げるのはやめときます。この人がまとめた初期(といっても49歳ですが)の行為理論は資本論に比せる大変画期的なものです(実は共同作業者のクラックホーンが偉いのかもしれませんが、それを見逃さないのはとにかく偉い)。システム論は話になりませんが。
 で、ルーマンについても、機能主義がジンメル流の形式社会学と重なるとこうなる、といったもので論点が混在して抜粋が長くなりすぎるので、やめます。
 
 ここでは私の趣味で
A.トゥレーヌ「社会学へのイマージュ」梶田孝道訳、新泉社、1978。
pp104〜105

「社会は、その機能作用によってではなく、その自己変容能カによって定義される。社会の経済システムは、生産と消費の均衡によってではなく、その不均衡によって、消費可能な生産物の一部分を蓄積と投資のために先取することによって定義される。科学技術は、機能作用を構成している一手段であると同時に、機能作用そのものを変更するための手段でもある。こうした区別は、社会が消費の社会でなくなるほど、つまり投資と発展の社会になるほど、また固定資本と流動資本とが生産全体の中で大きな部分を占めるようになるほど、ますます明確なものとなる。
 このような労働に対する労働、社会自身による社会の変革行為を、歴史性と名づけよう。
 この歴史性を、科学技術によって、言い換えれば、一つの道具体系の形成によって定義することは不可能である。ここで問題となるのは、社会的行為なのであり、この社会的行為は、その技術によってのみならず、その意味や志向性によっても定義されねばならない。
 この創造性は、顕現する次元が相互に無関係な三つの構成要素間の相互依存関係によって定義される。
一、蓄積様式(二、文化的モデル 三、認識モデルである)……。」

 まあこれ以上必要ないでしょう。ご希望の方は本文を。慣れるとSFやワンピース(マンガ)の「新しい冒険エリア」の説明を読むようでなかなか楽しいと言えないこともありません。

 で、これは学生のような人へのつけたりですが、だからくだらない、といってしまってもいいんです。
 でも実際はくだらなかろうが、その紹介で食べている学者はたくさんいる。
 なぜかな?
 結局、それは打ち出している価値意識なのです。
 凡百の自称理論社会学者は他人のいったことをなぞるだけだ。それは別に日本の社会学者に限った話ではないようです。そのとき、人に影響を与えるのは、その理論の話者が持つ価値意識なのです。ハーバーマスなら左翼進歩派、ダーレンドルフなら中庸穏健左派といった。
 自分で打ち出せなくとも、やはり人は自分が好きな人が好きなわけです。とりあえず展開はしませんけど。


 さて以上で、社会科学の誤りの仕方を終わります。
 まだ、誰か有名な人います? ご希望があればメールください。すぐに批判させていただきます。
 でも、小林よしのりみたいのはだめですよ。あれはただの感想文だから。論拠もなしに感情的感想を発表するパターンは誰でもマチガイだと気づけるからこんなとこに載せる必要はない。あとで論理と「趣味」ということで、一般的に取り上げます。
 (っていうと、良心的な若い人が怒りそうですね。「若い子に受けるデマゴーグはその時々につぶさないと、いまどきの子には何が正しいか分からない」って。そう聞いたとき、そうか、がんばってるな、って感心しました。
 じゃ、そういうことで。……違うか。まあ、ああゆうのはきりないんでねえ。君たち、お子たち、ああゆうのは吉本興業と一緒で、笑って忘れればいいのよ。)
 
 以下は付録です。
(付録1) 
 全体的な社会イメージが知識になるのと同様に、事実も社会イメージになります。だから事実の集成や一つの事実でもその印象的な見せ方は、ただそれだけで大事です。
 たとえば次のものなんかは小林某氏に見せれば少しは歴史というものがわかるでしょう。
 
J。レスター「奴隷とは」木島始・黄寅秀訳、岩波書店、1970。
19世紀アメリカの、人間として生きて、赤ん坊が白人主人に虐殺されなければ親にもなったはずの無数の黒人の男や女の語り集。
 訳者は良心的文学者ですが、この単に事実を報じているかに見える書物が、いかに「自由の国アメリカ」「平等の国アメリカ」が他人種の血の上に成り立っていたかが分かります。
 それはそんな昔の話ではありません。100年も経たない前までの記録集です。アメリカ奴隷制度は明治「封建日本」の差別の比ではありません。戦後知識人が憧れ、いまだにお先棒を担ぐやつがいる欧米の「ブルジョワ民主主義」や「自立せる西洋個人主義」が、実は宗教エリートや知識エリートの茶飲み話だ、という予想がつくでしょう。
 私もときどき近いことをいうって? 文化的にはそういうことってあるんですよ。エリート共の間ではね。
 
 逆にこんな事実もありまして、こちらは小林某氏には解説付きで見せないといけませんか。
 M.マイヤー「彼らは自由だと思っていた」田中浩・金井和子訳、未来社、1983。
ドイツ地方都市で実際に共に生活をした元ナチス党員たちとの対話の集積集。
 訳者は良心的政治学者ですが、この単に事実を報じているかに見える書物が、いかに善良な市民をナチス体制に引きずり込んだかを、事実的によく理解させてくれます。ナチスなんて別に狂気の産物じゃないんですよ。こうこうこうやれば日本でもできます。って作ってどうする。

 ところで、問題は、事実はこんなに世界を明らかにするとはいえ、中には実証を標榜してもその合間合間に自分の趣味をコソコソと隠し入れる輩がいるということです。しかも、その部分は実証に基づく理論や結論にみえるからいっそう始末が悪い。
 
今田高俊「社会階層と政治」東京大学出版会、1989。
p42
「政治的な平等原則を実現するさい、どうしても結果の平等が問題にならざるをえない。ところが、なんでもかでも一律に結果の平等を主張すると悪平等に陥ってしまう。
 たとえぱ、人間はすべて平等なのだから、労働にたいする報酬(賃金)は均一にすべきだという粗野な平等主義では、困難な仕事に取り組む人びとの動機づけがそがれてしまう。そうなると社会の効率がそこなわれ、経済の活動水準が低下する。その結果、全体のパイが減少し、社会はますます貧しくなっていく。平等な分配は達成できても、豊かさはじり貧になる。もちろん現在、このような粗野な平等主義の立場は、すでに過去のものとなっている。効率を犠牲にしないで結果の平等を優先するにはどうすればよいか、が争点である。」
 
 勝手なことをぬかすな。どこにどんな実証的根拠があるんだ。経済原論ならまだしも「理屈」だが現実分析に組み込めば実証のない限りウソになるんだよ。こんなものがもっともらしい数式がチリバメられた本に埋もれてたら、ああそうか、って思っちゃいますよね。
 しかも一方では彼は小沢雅子を非難して、
 「いくらデータについて説明されても、追試のしようがない。追試の可能性が示されないデータ分析は実証分析とは呼ばない」などと悪口をいっている。同書P200。
 じゃあ、データも示さない「理論家」の存在意義はなんだ?
 いやご当人は「実証分析家」のつもりなんだと思ってはいるのだが。

同書p216
「ところが、本人の能カと努力で自分の地位が決まるような社会への転換が進むにつれて、ある程度の不平等は決してなくならないことも、人ぴとは分かるようになってきた。
 努力して勝ち得た人とそうでない人のあいだの不平等はいたしかたないと思えるのである。ただし、職務権限などを利用して得る不当な報酬にたいしては我慢ならない。それは労せずして得た「濡れ手で粟」の報酬である。自分が遂行している役割から貢献にみあった報酬を受けたり、地位にともなった応分の負担をするのであれば許せる。しかし、それがバランスを欠いていたら許せない。株のインサイダー取り引きや勤労者にきぴしい税制などにたいする怒りは、こうした不公平感にもとづいている。それは生活の文法に反するのである。」
 こんなのもあります。
 誰がどう調査したって? 調査票みてやるよ。
 今田が批判してる調査法研究者安田三郎なら絶対こんな非科学的な発言はしなかっただろうな。まあ、間違うことはあっても。
 

(付録2)
 あと、何言っているのか分からない、それでもみなが論を通す、人たちがいます。
 心理(精神)分析の人たちです。
 まあ、だからといって、どう、ということはないので、真偽にこだわらない普通の人たちには落語のような、ってしらないか、コントのようなものなのでしょう。

岸田秀「「日本人の不安」を精神分析する」大和書房、1998。

「男女関係にしても、僕たちの若い時代は、今のように自由ではなかったから、性的にいつも不満で、セックスにがっついていました。しかし、最近の学生たちを見ていると、セックスの欲望もあまり強いように見えません。仲のいい恋人同士でも、本人たちが「あまりセックスしない」などと平気でいっているくらいです。
 セックスしたいと思えぽ、いつでもできる。それこそ自分の恋人だけでなく、他の異性ともしようと思えばできないことはない。セックスについても、いつでもできるとなると、それほどしたいものでもなくなるのです。
 ものに対しても、セックスにしても、みんな満ち足りているのが今の状態です。不満の種があって、努力すれば何とか解消できると頑張っているときが、いちばん活力が生まれるものです。今の状態は、ある意味で日本中が欲しいものやしたいことがなくて、困っている。だから、活力が生まれないという状態にあるということもできます。
それでは、今の日本には何の不満もないのか。
 今の日本の状態で、もっとも大きな問題は、実質的にはアメリカの属国であるにもかかわらず、それがどうにもできないということです。意識的には、そこから目をそらしていても、無意識では、そのことはわかっているのです。だから、どんなに豊かになっても、暗い気分というのはどうしようもない。つまり、第1章で触れたように、日本人が日本人としてのアイデンティティを持てないことが、暗い気分の背景にあるのです。
 バブルの頃に、アメリカの会杜を次々と買収したり、不動産を買いあさったりしたのも、たんに金儲けというのではなく、軍事的にアメリカに負けた屈辱を一部でも取り返そうとしたのです。日本人は、アメリカ国民から反感を招いてびっくりしたのですが、日本人には、自分たちのそうしたメンタリティが見えていないのです。そうした無意識のメンタリティは、自分ではわかっていなくても、他人からはよく見えるものです。」
 
 そうだったのか知らなかった、ってうそだろ。全部うそ。どこにそんな日本人いるんだよ。
 
 「なによ、わかってるわよ、うそだってことぐらい。それがどしたのよ。やーね、学者って」
 「ほんと、やーね」
 
 はいはい、私が悪うございました。
 やっぱこんなのみんな笑い話で読んでんだよね、ぜったい。こんなのまともに取り上げるぼくもまじめだなあ、と素直に思います。
「社会のごく一部にある事実を極限の範囲にまで拡げて適用する誤った議論」って分類するのも、大人げないって笑われるよね。
 なお、図書館から借りてスキャナーするときページ数忘れてしまいました。終わりから20ページくらい手前だった気がします。また借りる努力もムダなのでそんなとこでよろしく。
 
 ほんじゃ、落ちるとこまで落ちたので、また。



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