ブログを作ったのはいいのですが、せっかく気を入れて書いてるのにだんだん奥のほうへ埋もれていきます。
それも空しいんで、こちらにひっそりと保管しておくことにしました。




市民社会論
2008-07-06 22:15:22 | その他
 夏ですね。
 アジサイの花には茶色い枯れ色がめだちはじめた今日この頃、昨日気づいたら向かいの垣根に白い花、
クチナシです。今年はちょっと遅く咲きました。
 ここに来てからは、こんな変わった花が。オオスカシバという巨大な蛾のイモムシが好きなんだそうです。
 こちらの垣根にはアベリアがあって、これは大人になったオオスカシバの食べ物。
 オオスカシバって、少年ジェットの「紅さそり」の帽子みたいな、って誰も知らねえよ。

 とゆうわけで「領有法則の転回」
 なんのこっちゃ。

 ここんとこ裏ではなかなか理論活動が進んでおりまして、それだけは気分よく。
 でも、皆様に伝えるほど役に立つ話ではありません上に、他には面白いこともないので、半分憂さ晴らしのテーマです。
 私と同じように、ここんとこ面白くない人は、みないでくださいね。


 で、西欧市民革命を確認しようと今週図書館で10冊借りた本中2冊に入ってるのがこの「領有法則の転回」。こんなこけおどしの掛け声はどうでもいいんですけどね、こういうのが好きな(マルクス主義者の)人たちの一致点がありまして、『正しい個人所有を取り戻し、本当の「市民社会」を形成しよう』みたいなところですね。 意味は私には聞かないで下さい。
 いつもお世話になるウィキペディアさんには、「領有法則」はなかったですが、「市民社会」はありますので、貼り付けますと

「上述のグラムシの見解は先見的であったといえる。こうした状況下で市民的自由を確保するためには、従来の共産党・労働組合を主体にした一極型の運動ではなく、日常にまで官僚制やマスメディアを通じて干渉をはかる国家権力に対して、市民の日常生活にかかわる諸団体がネットワークを結んで多極的な抵抗運動を展開すべきだという考えが形成されていった。」

みたいなところで、ま、かっこよいですな、響きは。

 ただ、現実は、「小市民は私有財産を持っている。これを否定することは出来ないし、結局、おれらの運動につきあってくれるのはそんな人たちだからから、これを前提に運動しよう」 というところです。
「領有法則」っていうのは、「個人の所有が資本の所有になってしまっているメカニズム」を指すようで、いえ、なにいってんだか、理解不能な言葉ですけどね。その所有をとり返そう、っていう算段ですね。

 ただですね、私有財産(私的所有)が良くて、資本家の何が悪いんですか?
 根性が悪い? そりゃお互い様でしょ。 意味不明なんだよなあ。やっかみとしか思えませんね。
 労働者を搾取してる? そりゃ資本主義なんだし。何がいいたいのかなあ。
 儲けのとりすぎ? そりゃ悪いですよね。じゃあ、国家で統制しますぜ、私有財産の統制を。
 ぜんぜんわからない。何を言ってるか理解できる可能性はただ一つ。
 発言者はただのプチブルで、言いたいことを言っているだけ。なんでも人のせい。自分のことは棚上げ。

 いや、巷でマルキストでカネを貰えるのは大学教師だけですからね。それもいいことなのかもしれませんが、一方で、そんなこといってんならマルキストなんか存在理由ないやと思うのもありますね。誰があんたらの本を読む(読める)んだね。
 一方、アナーキストなんてどうやったって生活できないんですからね。

 で、ほんとはですね、違うんですよ。
「上述のグラムシの見解は、、、」とかあるでしょ。これはイタリアの共同体運動を指しているんです。所有問題なんかではない。
 イタリアには、アナーキズムの伝統があって、都市労働者が近隣の仲間同士で生活している、その仲間でなんでもやりたい、『共産党の運動はやだぜ、「おれら」は「おれら」でやるから』という基盤があったわけです。だからウィキペディアにあるように、共産党じゃない、統一組合でもない、ましてや国家でもない運動、を語ることが過去には現実的だったわけです(グラムシという人は、70年前に死んだ人です)。
 で、ひるがえって日本。
 そんなもんねえがな。イタリアでさえ消えかけているものを、日本で増殖させようなどと、アホかね。
 アナーキストがいうんだから間違いない。
 日本のどの「市民」なる社会層が自分以外の要求を掲げるんだ? しかも幽霊のような無基盤の要求を。

 そりゃどの国でも「良心的な人々」という「カテゴリー」はあるわさ。マルキストが言う「市民」とは、そんな社会的には無規定の「良心的人間」のことに過ぎない。早い話があなたのことです。
 大変ですねえ、あなたも。期待されてますよ。

*************

 と、翌日見ると不親切ですねえ。こりゃ、憂さ晴らしだな。そうなんだけど。
で解説。

1 領有法則の転回というのは、マルクス主義的に、2ケあって、
(1)マルクスが無理やり「労働者は労働ではなく労働力を売るんだ」といってしまった手前、どこかで搾取を見つけなければいけなくなってむりやりこさえた資本論中の幽霊過程であること。私は、過去ブログでお分かりのように、こんなアホ臭い衒学論議(学問の系譜を引き継ぐことで権威を自分にも引っ張り込もうと無理やりつじつま合わせすること)に興味はない。
(2)もう一つは、これまた過去ブログで興味がないといった、中年マルクスの資本論準備論文(経済学批判要綱)について、これをひねまわして、その歴史発展理論のなかに領有法則なるスローガンを落とし込むこと。論理だてて書けばすぐに批判してやるのに書いてる本人もわからないから意味不明で、こちらはさらに頭にくること。

2 で、問題は(2)の人々だ。この人々が市民社会を花束のように持ち上げる。しかし、
(1)「市民社会」は理想社会であるわけがないこと。それはだれでも知ってる資本主義社会であること。ましてや私的所有を金科玉条にしつつ、でも自分は左翼でござい、などという顔をするやつの本は、すぐチリ紙交換のお世話になって当然。
(2)運動としての市民社会論、というのもあって、市民が運動をするのがエラい、という話だ。これと領有法則の転回(「本当の私的所有へ」みたいなかっこつけ。「本当のこと」なら不可侵だと思ったら大間違いだ。)とどこがつながるのかというと、だから、個人主義礼賛さ。ああ、資本主義成立後200年、ブルジョワジーに言い古された個人主義! 人間、何の進歩もない。

  それに対し、仲間の社会と、同じ仲間同士主義。これがアナーキズムです。


 とゆうことを *** の前でいったんだけど、そう読めない?? うむ、かえって難しいか。



主語の有無の行為への影響
2008-06-25 20:56:31 | その他
 今日は風呂に体を沈めると、窓から山の匂いが。
 (当家は旧式のマンションなんで、ボロい代わりに風呂に窓がついてたりします)
 夏も近いですねえ。

 さて、『英語にも主語はなかった』(金谷武洋・講談社)
 という本がありまして、わたし的には英作文の勉強の流れで(あるのは知ってたんですが買うほどでもないので、たまたまあった図書館で借りて)読みまして。
 内容は、
『日本語は「虫の視点」で、英語は文に「主語」を作ったので「神の視点」となり、英語圏人はそういう行動をする』
 といった話です。
 わかんないですよねえ。
 (以下、ちょっと分かりにくいと思うので、その辺よろしく)
 この本についてのどなたかの amazonレビュー(?)をコピーしますと
 
【虫の目、鳥の目、神の目 (2004-02-01)

「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった」という「雪国」の書き出しは、英語では the train を主語にするという。英語による表記に基づき、絵を書かせると英語話者は飛ぶ鳥が汽車を見下ろしたような絵を書くという。

 日本語の原文は、鳥の目ではなく、「私」という虫の目から見た情景とそれに触発された気持ちの表現である。私が歩いていようが汽車に乗っていようが同じだが、歩いてトンネルを抜ける人は普通いないので、汽車にのっていることがおのずから分かる仕掛けになっている。】

 ま、そういうことで、ってひどいか。
 日本語では、文を話す主体がいつも現実の人間の立場にいるでしょ。
 英語では、行為者の立場にいなくて、外から人間を見下ろして話すって趣旨で。

 ネットで繰ってみますと分かりますが、他のamazonレビューではずいぶんけなされてますけど、これはこれで、娯楽本と思えば別にけなすほどのもんじゃなくて。基本的には間違ってないし。
 いや別に読まなくてもいいですけどね。
 
 で、一般に問題は、金谷武洋という人の話では(基礎は三上章という人の日本語文法論なんですが)、この英語の神の視点どおりに英語圏人が行動する、という点でして。
 まあ、この本を娯楽本と受け取らない人は少ないと思うので、理論上出るという問題に過ぎませんが。
 で、この点以外は良い本だとは思うんですが、「人間は、どんな言語を操る人間だろうと、同じように行動する」というのが行為論的社会学の基本テーゼですので、そんなことを言われちゃ困るんですよね。
 しかして、これは間違っている。
 トンネルを抜けると雪国だった、って状況は、行為者個人にとってはおんなじでさあ。
 あたりまえだあね。
 後でそれを回想するときも、日本人であれ英国人であれ、同じ回想をする。
 あたりまえだあね。
 同じ状況なんだから、おんなじように反応するのが人間です。ウソだと思ったら西洋人の小説を読んでみてください。どこも日本人と(自分と)違っとらんですよ。

 しかしながら、英語と日本語は同じ表現をするか?
 いいやしない。これはおっしゃるとおり。
 もともと言語に主語などない。
 おっしゃるとおり。
 人間の行為に主語などいらない。主体が誰かなんてことは発声時には分かってることだから。
 しかし、現実には英語では主語を使う。そこは、そういう分化をした言語なんだからしょうがない。
 
 では何が違うか。
 それは行為者にとって、赤ん坊時代に、状況をどう言語化するか、という規範が違うわけですが、その結果として情報想起のセットが違うはずでしょう、ということです。
 事実認識において、影響はわずかかもしれないけれど、確かに物事の動きの中に人間が介在してしまう。
 これはまずは神の視点ではなく、行為する人間のイメージの視点であり、そこに、主語有り言語圏では人間的(人間のような理不尽な行動をする大人気ない)神がいつまでも歴史の底に消えていかない理由がある、ともいえないわけではないかも。
 
 たとえば、初めに「アイ (I) know」といわれれば、聞いた人間としては、相手と人間一般を巡る状況への想起神経回路が準備される。もちろん、想起神経回路は乳児期より「アイ」についてセットされている。同様に、「ユウ (You) know」といわれれば、初めに自分と人間一般を巡る状況が頭の中に準備される。その後に「the answer」といわれれば、答えを知ってる相手がトータルで想起される。
 日本語では、相手が「答え知ってる」といえば、目の前に存在し続ける物体について、新たに「人間一般が知ってる」という状況が追加される。このときには「I」という一般は相手の中には存在しない。
 あるいは、相手が「答え知ってるでしょ」といわれれば、単純に「自分が知っている状態」が検索される。このときには「you」という一般は自分の中には存在しない。
 つまり、主語なし言語圏人では、状況をポンと前に置けば、みんなが同じ立場でそれに対応してくれるはずなのです。
 こうして、思考に「I」や「You」のない、シンプルな自然的状況人では、主語有り言語圏人の神のような自分に向かって行為する抽象性は頭の中に存在しない。自然に懼れがなくなる時代には、父や母の抽象性でしか存在しない平和な宗教が残るだけ、という理屈になるかも。
 
 まとめていうと、 I や You や It が、必ず動詞(という状況をイメージさせる語句)とセットされている英語人と、ただの(動詞という)状況語をその時々に使うだけのその他の言語人とは、一人考えをするときにも想起するイメージが違う可能性がある、ということで。
「さてこれから考えごとをしようか」と思うとき、私などは、これから前に座るデスクトップパソコンしか思い浮かべませんが、英語人なら「I'll study」と思うとき、「I」とともに「I」にまつわる全ての動詞 (のうち、日常的に重要なもの、たとえば「You must、 You must」といい続ける神父) がセットで想起されることもありうることです。てゆうか、現実には児童期に、そうやって「I」のセットを頭で作らされてしまってる、わけでしょうね。

  というわけで、せいぜいそんなもんだけど、そんなものがどれだけ影響があるか、これは社会学ではなく心理学レベルで実験調査すればそれでたくさんな気がします、というのが結論です。
  
  
  それにしても我ながら、主語のない文章ですね。じっさい、主語なんているはずないですよね。




世界システム論派の意義
2008-06-22 22:06:57 | その他
こんばんはの2。前回の続きで。

 世の中、市井に生きておりますといろいろ予定にないことも多く、いや市井ならずとも学生さん以外ではまずは予定外でも済まさなきゃいけないことが多くあるわけですが、要するに、「時間不足につき思考不十分」という言い訳で。

 で、産業資本主義ですが、これは前々回ですね、
 この20年ぐらい(うへっ、おじさんだね)経済学ではレギュラシオン派という一派がでてきまして、「世界資本主義システム」という見方が大事だと唱えてらっしゃる。

 資本主義が世界的なのは、マルクス主義的には当たり前なのですが、残念ながらマルクス経済学者の怠慢で、それまで (もそのときからも) 何一つ、完璧に実績がなかった。そこへ突然社会学者が言い出してきたものなんですが、マルキストからみれば個別の論理はたいしたレベルのものではないし、主唱者のウォーラーステイン (趣のある名前と思いません?) という人自身も 「別にこれが正しいとかじゃなくてこういう見方が必要なのに誰もやってないからやる」 という、冷静な人なわけではありますが(冷静だけどいい人なのでウケる、ということもありそうですが)、実際、マルキストとしては掛け声ばかりで誰もやらなかったんだから恥ずかしい限りでしょう。ときどきあったマルキストの「世界資本主義」なんて名称の書物は、国家間貿易、金融交易しか書いちゃなかったですからね。

 で、わたし的には、くだらないなあ、とシンプルに思っていたんですが、でも「国民経済の成立」という概念は、「世界経済システム」という論理のセットをしないと展開できないよなあ、と思ったところです。

「国民経済」って、資本主義がどのように人間を規定するか、について、ある民衆にとって、それはまずは、国家としてどのように資本主義を扱っているか、という問題になる。この時点では資本主義は世界資本主義なんかではないのです。しかし、国民経済としては世界経済による規定性を受けざるをえない。さてそこで、その世界経済は自由気ままにふらふらと動いてきたのか、というと、そうではない。ウォーラーステインさんの言うように、そりゃ世界経済システムだ。世界資本主義システムではないですけどね。
 そこでですね。私には時間がないと思うと困ったものです。
 ただの行為論専攻社会学研究者にとって、そんな簡単に世界経済なんてわかりゃしませんがね。
 というわけで、やはり、誰もやっていないことをやった人というのは、偉い人なんですよ。基本的に。
 
   なんてことが、次の展開が遅れる言い訳になるといいんですけどね。
   
   (後日、題を変えました。ウォーラーステインて、初見が「レギュラシオンのなんとか」って本だったから、レギュラシオンと一緒でいいと思ってましたよ。その本は、速攻でちり紙交換時に持ってってもらいましたので、その他の取り巻きが確認できず失礼しました。)



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小説は何を指し示したか
2008-06-22 22:01:32 | その他
こんばんは。
私の読者はどういう方なのか、よく分からないところがありまして、数少ないトラックバックによりますと、文学系の人がいるというか案外そういう人たちが多いのかもしれませんね。
というわけで、

今日は某家におじゃましたのですが、トイレの合間、手持ち無沙汰な時間に眺めたのがそこの応接の壁面にずらっと連なる日本文学全集。
昔のうちには時々ありますよね。
しげしげ眺めて、思ったのが、昔はこんな(小説家の)人たちの文章が日本の文化のほとんど全体だったんだなあ、と。
森鴎外から北杜夫まで。ずらっと並んだ何百人。おおげさかも。百数十人かな。
50年後、誰か日本ファンタジー全集を応接部屋に並べる人は、いないだろうなあ。

こういうのを見ると昔の人は命を大事にしてたんだろうって思いますね。

どう生きるのが私の生き方として適切なのか。
昔の小説家は、それを、人間の生きるさま、として物語で提供してくれました。
もちろん、提出するのは帝大出の類というか日本を代表すべき人たちで、これに習うのはまずは同じ日本人として当然という背景はあるのでしょうが。(今だと東大医学部出の人のいうことを日能研の子供が聞くって感じでしょうかね)

ま、そういう事大主義の歴史はおいて、とりあえず今日の思いとしては、「そうか、人生を書いていたんだもんなあ」という感慨ですね。人生を書いてそのまま死んじゃった人も多いですしね。

  小説は自分の代わりの物語だけど、面白くなくちゃいけないのもいいことなのか、私も古い人間でよく分かりませんね。小説全集の最後の世代は、やはり北杜夫なんでしょうねえ。




裏のコーヒーブレイク
2008-06-16 21:06:04 | コーヒーブレイク
なんか、こんな文でも読んでくださる方がいるというのも恐縮ですね。
今日は私のブログの書き方から。
ご覧になるように堅いことをだらだらと書いていますが、頭に浮かんだことをそのまま書いているわけではなくって。

たとえば、ジョーン・ロビンソンていう、おばあちゃん経済学者がいまして、もう死んでしまいましたし、若いときもあったんでしょうが、私にはおばあちゃんのロビンソン。
ケインズのお弟子さん、みたいな人ですが。

で、その人の本を今日なんか読んでみると、〈発展途上国の都会ではあぶれた貧乏人が、小さな資本を元手に自営業をやっている、こうした経済を見過ごしてはいけない〉、なんて趣旨が書いてありまして。
「そおかあ、新宿の街頭の古雑誌売りのホームレスかヤクザか分からない人たちは、資本家かあ。いわれてみれば、今は一人でも、なんとか仲間を集めて古雑誌業の看板を出せば社長だしなあ、ていうか、看板を出さないほうが制約がなくて儲かりそうだけど、でも看板を出すと信用金庫からカネを借りられたり、損して得とれとかあるんだろうなあ」
なんて、感心して思うわけです。

で、ところで、
「そういやあ、なんだね、資本家って。
 偉いといわれる学者先生は、産業資本家の発生は歴史の謎だ、みたいにいうけど(特に日本では邪馬台国の謎みたいな人気課題になっています)、要するに、カネを儲けるというルートが確定し、そこに入っていける根性がある人間、というと誤解されるが、共同体から外されて、ともかく闘いながら食ってくしかない人間、他称『自立した人間』なら、それが本来のルートじゃんか」なんて思うのですね。

そういう思考を経て、じゃあ、もう一回資本主義発生史論を見てみるか、みたいに続いていき、その結果が1週間後とか、ここに載ります。(今は別の課題をしているのであとで)

だから、この場所も堅い文ばかりだけどけど一種のブログでないわけではないんですね。

ついでに思うのに
「そういやあ、ルンペンをばかにするマルクス主義集団もいたなあ。非組織労働者をバカにすること自体、政治家集団であって労働者仲間の集団じゃないってことがわかんねえんだよな。ま、確信犯てことはあるけどな。だから労働者には嫌われる。エリートくせえし。いっていいことと悪いことがあるって、隈のブログでも読めよ。それもこれも教主がどうしようもなかったんだが、教主も死んだから悔い改めるにはいいチャンスなんだがなあ、、、
 でも、そういうもんじゃないんだよな、人間集団て。みんなその中で一生懸命生きてきたから、仲違いの過程を通らなければ、何も変わることができない。だからさ、そんな集団の中で生きるなよな、っていってんだよ」 by アナーキスト。 「そういやあ、前衛主義者のサガとまともな共産主義的人間集団のあり方っていうのも課題だよなあ」
  
 すごく、一部、マルクス主義関係者にしかわからない話だけど、こんなふうに頭の中で動いてくと思うと、やはりブログっぽいでしょ。
 
 昨日に引き続き、なんとはない軽さ。なんか仕事が面白くなくて、つまんないことなんかいってらんねえさ、といえばホント過ぎますか。




言いたいことと言わないこと
2008-06-15 21:25:08 | その他
実は、私には子供がいまして (驚いたでしょう?? そうですよねえ!! って、、なにを言いたいんだか)

子供がこの春仕事で、当川崎市から600キロ遠方に派遣されたので、母親がああだこうだと電話で子供に言いたがって。
ま、母親なんてそんなもんですがな。
で、ですね、仮に電話を私に代わったら、私もおんなじこというしかないな、と思うんですよね。
私、正直ですし。だから代わんないけど。
で、とりあえず言わない。
でも、言わないからといって、そう思ってないわけじゃない。

世の中そういうものですよね。
言うのは言うで、言葉に出すこと自体にそれなりの重みがある。
それが(男同士の)争闘の世界ってもんさあ、、、もんさあ、か、知りませんが。

同じく、殴りたいことと殴らないこと。
これも同じことです。殴らないかどうかは、そいつがどれだけ将来を探っているか、の問題にすぎない。
男は野蛮というよりも、人間社会はそういうものだから、権力の一端を握った女はそこをわきまえてほしいですね。

口に出すかどうか。
そして口に出して、勧奨(ないし脅迫)するかどうか。ここが大きい。
別に社会科学的には大きくなくて、社会科学の因果連関に関連する場面では、誰かが必ず口に出すので改めて考慮する必要はないんですが。
世間一般では、ままあって。

なんでこんなことをゆうかというと、昨日はさだまさしがミュージックフェアに出まして、なんでもさだまさしの子供が出るというので、なんだ子供なんかいるのか、俗物だな、と思いながらテレビを見てましたところ (私もそれ以上俗物で)、松浦亜弥なんてやつが
「さださんておじいさんみたいだから、隣りにいてすごく安心して」
って、ばかやらう。 だから、B型はなぜB型なの。

もちろん、さだという人は私なんかより何倍も年上ですが、(何倍じゃねえ? そりゃ数学というのは言い訳のマジック。それにしても口の聞き方が。)
さだ様、ご愁傷様です。

  さて、今日の本題は。
  人間に備わっている、言いたい言いたいどうしようもなく言いたい、てなところは、なんらかの社会制度で抑えるしかない。
  正確に言うと、『「それはまずいよ」なんていっても言いたいやつは言うから、言われても問題ないような社会制度を、その発言の手前で確立しないといけない』、というところですね。
  いくら人間の自由とはいえ、残念ながら、それは殴りたい、という刑法の次元と同じものだ、ということです。で、ついでに、それでもまかなえない部分は、規範として「いっちゃだめだよ」と教えるのじゃ仕方がない。  
  
  ときどきこういうアナーキストらしくないことをいうので驚かれますが、私は暇つぶしにアナーキストになっているわけではなくて、最善の世の中を探っているだけなんです。


  ふんふん、今回はずいぶん軽い話で。軽いついでで追加ですが、ここんとこずうっと、エロ・コメントが入らないんですよねえ。(さえ入らないって言うか)。そんなの機械作業かと思ってましたが、案外手作業で見て回ってんのかしら。基本的に嫌いな奴らですが、唯一コメントをくれる人たちなので、せっかく努力して回ってんだったら、なんか、手助けをしてやりたい気もしますね。
  って、無駄もいいとこでしょうけど。




もう一つの「歴史の必然」
2008-06-08 22:09:36 | その他
(前回の続き)というわけで。マルクスの生産形態論。

「大ざっぱにいって、経済的社会構成が進歩してゆく段階として、アジア的、古代的、封建的、および近代的ブルジョア的生産様式をあげることができる。」(マルクス:経済学批判)(シカゴ・ブルースというHPにありました。ありがとうございます)
というやつですね。

それはそれである程度は結構ですが、そう主張する皆様は、マルクス当人を含めて、じゃあ何が進歩の動因かわからないでしょう? わかったら誰も揉めやしませんしね。(マルクス主義者の内部で(さえ)、たくさんの論争が起きて内輪揉めした(今もごくごく小規模なくせに内部でしている)、ということです)

本来、マルクスさんは、「これらの形態の根本は所有制度の違いだ」、とおっしゃるんですね。
所有制度の違いなら、なんか所有に絡んだ要素が進歩の動因になったっていいじゃないか、というもんですが、そんなものは動因になっていません。歴史的にも動因になっていないし、ただの主張としても、そう主張する人はいない。
あるのは「農民が生産手段を所有しなくなったので、賃金労働者ができた」という資本主義最初の一瞬の修飾語だけ。
 ちゃんといってよ。その動因は、あなたの言葉なら所有制度の違いではなく「生産力の増大」でしょうが。
 何を言いたいのかよくわかんないよね。何が所有さ。それが生産力とどういう関係があるの?
 人間にとっての論理とは、あるものが、それに関連すると規定されている他のあるものについて表現されたときに、論理として掌握されます。
「この花は赤くてきれいだね」「そうなんだ。緑の草の中で、赤は映えるからね」
これは理屈ですね。その花は、純粋に綺麗なだけかもしれませんが、それはそれで論理として納得できます。ところで、
「この花は赤くてきれいだね」「そうなんだ。多年草だからきれいだよね」
って論理か? ちゃう。

余談ですが、私もおじさんになってしまって、マルクスがなんかいうと、やめなよ坊や、恥ずかしいから、って気がするんですよね。
時々言うように、坊やチャンは流行が好きでねえ、天才とかじゃなくって、流行をうまく取り入れたんですよねえ。いや、素晴らしい取りまとめ人だと思いますけどねえ。
ギムナジウムで習った歴史観、大学で習った弁証法、図書館で勉強した経済学。この場合は、社会主義者仲間で流行の「所有」。
  誰だって多かれ少なかれそういうものかもしれませんが。
  少なくとも私はそうですね。中学校の社会主義、高校の実存主義、大学ではそれの否定形を自分のものにしたかも。
  食えないのがエンゲルスで。彼氏は天才だから全てをバカにしてますよね。いいかげんといえばいいかげん。いってることの9割しか正しくない。
  まあ、エンゲルスの言葉を文字通りとっては彼のいいところを失ってしまいますので、ご注意を。

閑話休題。
実のところは、マルクスがこれが本質だ、とする生産手段の所有・非所有者の別名としての「自由」など、歴史とは何も関係がない。現代の歴史の主役という資本主義社会の「自由な労働者」など、気の利いた駄洒落に過ぎません。
まずは、支配出現後の社会では自由な農民などどこにもいやしなかったのです。
いやちょっとだけいたけどね。
ついで、一方、生産手段を持っていた農民もどこにもいない。彼らは、鋤や鎌を占有状態にしていただけです。

(なお、およそ権力が保証した「所有」という概念は、占有状態にない農地や農民への「所有権」が現象しない世の中では意味がない言葉です。鋤や鎌についていえば、「誰のもの」という言葉の所有格は、占有状態について社会関係の中で自然に生じますが、「自分の農地」なのに剣を持った野蛮な野郎達が「ここは俺の土地だ」と主張する状態は、社会関係一般の中では自然には生じないのです。個人的占有は、当初の消費物資の入手とそれにまつわる行為者の処分可能な将来の存在によって、人間の本来的態勢です。だからといって社会内の制度としての個人的占有が本来だ、といっているわけではありません。環境によって決定される社会関係には、「本来」などあるはずがないからです。「所有」概念神格化がマルクスが抱いた最悪の固定観念なのでしつこくいいました)。

歴史変遷にかかる契機として重要なのは、所有ではなく、まずは消費なのです。
原始的共同体においては、共同消費の「規範」が共同性の要になります。
これが規範であるための前提が個人的占有状態なんですね。それでいかにも所有が初めからあったように見えるが、実態は、共同の所有もなければ私的な所有もなかったというのが、人間の始原として親と子しか存在しなかった世界の理屈です。

原始のような小共同体においては、武力はあまり意味がない。寝ている人間の頭を石で割ればそれで終わる武力に過ぎないからです。下品ですけどそういうことです。小共同体における武力は、武力の共同的行使にある。隣りの部族を襲って消費物資を取ってこれるかどうか、あるいは捕虜を捕ってきて生贄にするか。
全ては、余剰消費物によって決まる。
これも世間では余剰生産物というけれども、それは本質的ではありません。
消費しないものをどれだけ生産してもそれは、邪魔ではないただのゴミです。
ある地域では、消費が余剰にならないときは(食料がどんぐりの時代、どんぐりをいくら拾ってもどんぐりが生るのは一時期で、数年も持ちません)、余った時間は生産的に、石組みを生産した。要はドルメンですね。この時代は、別に階級社会とは限らない。支配社会の可能性はありますが。

まだ、閑話してるかなあ。

人間の本来は消費です。これを社会的に規定するのは、労働行為の配分です。
これは、第三者的にいっただけのことで、本来は、労働行為の無政府状態による淘汰ですが。つまり、死亡という淘汰によって、労働行為が、その社会の消費物の規模に合わせて、整理・決定される。

生産力の発展というのは、「より少量の労働がより多量の使用価値を生産する力を獲得するような労働過程における変化」(マルクス:資本論)などではありません。
「どれだけ継時的に余剰の消費物資を作れていくか」ということです。同じ1年の労働でいい、「同じ1年の労働の中で、どれだけ余りを作れるか」ということです。何が「より少量の労働」だか。いや、別にマルクスが悪いんじゃなくて、ただの勉強好きの坊やだ、ということです。交換価値はそうですからね。しかし、それと歴史体制の変遷とは関係がない。
さらにまた、生産様式は、『消費可能性規制』を媒介としてしか現実化しない。いくら作っても、使えなきゃしょうがない、ということです。資本主義の致命的なネックですね。
作ったものを使えるかどうか、これは、個人にとっては、消費物資がどのような将来において入手できるか、という課題になります。この仕組みが行為を決定する。
もちろん消費物資は空気からは涌きません。それは生産関係の問題です。しかし、ここでも問題は、生産形態、すなわち所有の形態ではありません。
 どうもマイナーな派閥(セクト)の人はマルクスの流行らなかったところ(「先行する諸形態」等のこと)を持ち出そうとしますが、残念ですが、流行らないのは流行らないなりの理由があるものです。


さて、大きな閑話をやめて、前回の話題に戻ります。
歴史に必然はあるか。
歴史とは社会体制の歴史だ、ということに限れば、歴史にはもう一つ必然があります。
人間は、行為としての自由を求める本質の中で平等を志向しつつ、自己の自由を広げる生産の方法を事実認知として将来に伝えることで、人間個人の自由を、体制の中での1割から2割へ、2割から3割へと、次第に広げていきます。
これが社会体制の進展の歴史の必然です。
第1に自由。そして、これを他に広げる平等。さらに、生産の拡大のための、生産力でも生産関係でもない、「生産方法」。

なんか違いますかね?



本当の「歴史の必然」
2008-06-08 14:43:38 | その他
つれづれなるままにネットサーフィンなどすると、「つまんねえこといってしょうがねえなあ、めんどくさいけど左翼を志向する若い人たちにいっておかなきゃあ」、みたいなことがでてきます。
そんなもの出るとこ行くな、みたいなもんですが。興味の偏りが知れますね。

ほかで、「資本主義社会の規定性」みたいなものを見直してるところなんですが、ほかって私の課題は一つだけですがとにかく、「歴史の必然」なんてでてきますがね。
で、その「歴史の必然」の意味ですが、皆様、「歴史(なるお化け)が必然的に変化していく」、って意味で使いますな。まあ、それが当たり前の使い方といえばそうなわけで。

でも、「生きている人間の自由の社会科学」、「一人一人の社会学」ではそうはいわない。
「そりゃ、お前のような絶対自由主義者に『必然』はないんでしょう」 とかそんな意味じゃなくてですね。「おいらの主義だから必然なんて辞書にない」なんてのは非科学的ですわな。

実際、歴史には必然がある。ただし、歴史の必然とは、「私の(あなたの)次の一瞬の必然」以外の意味は持たない。そして、歴史は必然だから、私もあなたも次の一歩を踏み出すことができる。
  なにいってるかわからない、というところですね。以下、説明です。

さて、歴史とは何か。
まずは、「ただの歴史」なんてないでしょ、ということです。

商業の歴史、船の歴史、政治家の歴史、支配者の歴史、将棋の歴史。そんなものはありますよね。全部、「○○の歴史」はある。
で、何が必然ですって? ○○の歴史に必然はないでしょ。
  そうじゃない「歴史」って何? 別に意地悪じゃなくって、ただの「歴史」はない。

人は、自分がいるこの土地に残されたものを見て、誰が作ったのか知りたくなるときがあります。
ま、好奇心というやつですね。
もう一つ。
人間は、ある状況において、過去の事例を把握したいとも思います。昨日どうしたっけ? それってどんな結果を引き起こしたっけ? みたいなことです。

もともと人間の行為には、二つの事実認知の作業があります。
第1に、事実を求めると、それによって脳が刺激され、その事実にまつわった刺激物質が出ることを学習し、その快感を得るために、情報を取得しようとする事実認知です。
第2に、次の行為に活用するために、記憶を使ってそれを現在の状況に適用しようと脳内で構成し続ける事実認知。
 好奇心というのも微妙ですが、知識の面白さという点では第1のものかな。二つっていっても、同じ脳の作業ですから、境界領域もあります。

で、歴史も事実認知ですから、歴史にもこれら二つの顔がある。どちらの顔が大きいかといえば、第1の、快感にまつわる「歴史」であることは、本屋に行って、歴史論文とその他歴史本の比率を見ればわかりますね。しかも、社会科学として因果関連を教えるものなんて、その歴史論文の中でもごくわずかにすぎません。
第1の「歴史」とは、単なる叙述です。物事がそのときたまたま存在した理由を記載しているに過ぎません。
種々の現象は歴史的に起こった。それはそうです。じゃあ、なぜ起こったか。「それは起こるべくして起こった、歴史の本なんだからそう書いてあるでしょ」。でも、そんなことは結果です。結果の叙述にしか過ぎない。因果関連の科学とは、物事の起こった要因を未来に向かって明らかにするものです。
 いや、けちをつけているわけじゃなくて、普通の歴史の本のほうが面白くていいし、理論を作っていくときには事実として役に立つんですけどね。
 だが人間の次の行為には役に立たない。商業の歴史がどうだろうと、明日の買い物には役に立たない。船の歴史がどうだろうと、明日の出漁には役に立たない。それらは、結果を表しているだけだから、次に起こるはずの将来の事実が必然であるわけがない。

 さて、もう一つの歴史、次の行為をするために私たちの頭の中で整理された歴史、たとえば「明日誕生日のガールフレンドの、デパートでの行動の歴史」「明朝は時化るという予報が出たときの、私の漁船の暴風を航海して来た歴史」、そんないろいろな過去の歴史は、暇つぶしの歴史とは異なり、今に生かす事実認知の集積です。明日誕生日のガールフレンドへのプレゼントの買い物、明日の船での出漁には、必須の知識です。

 で、この歴史は自由きままか?
 私の買い物行動も出漁も自由です。
 しかし、私の中の歴史は必然でなければならない。必ず、ガールフレンドは、明日、プレゼントを見て喜ばなければならない。そのために買うのですから。また、明日の時化でも漁船は耐えなければならない。そうでなければ私は溺れて死んでしまいます。
 因果関連のある過去の事実認知の現実への適用は、この現在においては必然と自分で決定しなければならないのです。「可能性は6分と4分」。そういうのもあり。そして4分は必ずクリアすると思えば「4分ならオッケー」と決断する。
 かくて、自分が行為の主体であるなら、自分の歴史は必然です。
 人が、「労働者の世の中にするんだ、そのためにはこういう行動をしなければならない、なぜならこういう行動をすれば社会はこうなるから」、と自分で考えたとしたら、そのとき歴史は自分にとって必然でなければならない。しかし、そのとき「歴史」が指しているのは、自分の過去の事実認知だけです。歴史とはお化けではない。ただの一人一人の心のことです。
 
  文学的ですけどね。
  もともと、歴史は必然だなんて言葉自体、文学ですからね。
  
  
さて、そんなんじゃないよ、と。我々が主張しているのは歴史一般ではなく、歴史という言葉に名を借りた、生産様式の変遷のことだと。
まあ、そういう人もあるかな。いまどきそんな人だらけかどうか。ネットで見ても、都合のいい時に「歴史の必然」ていうだけなんで、よくわからないものがあります。
昔は、「社会主義は歴史の必然」としか使わなかったんですけどね。

ま、この続きは次回にします。


人は何を眺めているのか
2008-06-01 21:08:05 | コーヒーブレイク
これはコーヒーブレイクです。
「そろそろ季節もいいし、銀塩カメラの本でも見ながら写真世界に浸ろうかな、お、これは銀塩カメラで撮っている」 と、たまたま図書館で手にとった「風景写真入門」みたいな本を見て、ふと、違和感が。
なんじゃ、これ、へたくそ。

世の中にはプロ写真家という人間がいて、なぜか同じ場所から同じカメラでとっても、アマチュアとはまったく違うものが出来上がるんだ、と信じているところですが、、へた。

何が違うかと思ったんですが、くずみたいな花にピントを当ててアウトフォーカスにしてる(その他の風景をぼかしている)んですね。いくら作例だって、こりゃないな。

アウトフォーカスの風景写真というのは、言葉の矛盾です。
周りをぼかして浮かび上がらせたいのは風景ではなく、風景の中の特異な何者かでしょう。
それなのに、気まぐれに、くずみたいなものを中心にしてアウトフォーカスをしたって、何の感動も伝えられない駄作にしかならない。

美しい風景を見たときは、人は、今まで心を占めていた、狩の対象の狸、野うさぎ、恋の対象の少女、1時間前の自分を叱る親、そんな全てへの注視の作業から一瞬の間に離れ、視界全体を把握して、「なんだ、これは、、、」と感動します。
それは生物にとって基本的に自由のキャンバスです。
そこには心の中の全てを配置できる。
神や、女神や、怒らない親や、空腹を満たしてくれるはずのウサギ、あるいはただの、雨風をしのいでくれている木や葉っぱで出来た自分の家、、、
風景はすべての幸せの、あるいは恐怖の、キャンバス。 であるためには、一様にピントが合っている必要がある。

 その風景の中で注視しようとする何者か、その他をアウトフォーカスにべき何者かは、同じ美の対象ではあっても、風景ではない、ということです。


 いや、これはコーヒーブレイク。ほんとは、ここに載っけるために比較する写真を撮ったのですが、雨の日で 望遠135mm ASA100 (JIS100のこと)F8 1/8 秒だと写真屋さんに現像を拒否されるほどブレブレになってしまったんです。
 てゆうか、いい写真屋さんでして、お金かかるからやめてくれたわけですが。フジの某川崎市内パレット店。つぶれなければいいんですけど。





宗教とは(おまけ)
2008-05-25 14:30:14 | 行為
 「神道」が抜けてましたんでおまけです。

 私が使っている「本当の宗教」っていうのは、「民間信仰」というものの基礎のことを言います。
 この民間信仰が、支配者とくっつきますと、まず「民族宗教」と呼ばれるものとなりまして、これは、部族の酋長みたいな人が、「わしは神の子孫だぞ」とえばりかえる状態を指します。これが爛熟すると、伊勢神宮成立以前の最古代の天皇と神道みたいなものになります。
 武力で一番なんだから神の子孫でなくてよさそうなのですが、残念ながらいくら武力をもっていても自然にはかなわない。武力などいくらあっても作物も取れないし狩の獲物も逃げていく。果ては病気にかかっても誰も治してくれない、という世界では、神さんが一番えらい。
 そうすると支配者は2番目には偉くないといけない。それには神様の縁者である必要があるわけです。
 「権威付け」っていいますかね。
 「権威」というのは、「その人間のいうことが、事実であってもなくても、事実と同様に行為の将来に適用するのが自分にとって最善の方法である」という認識を指します。
 神様のいうことは聞かないと、飢えたり洪水に遭ったりして死んでしまうわけです。
 この場合、酋長なり巫女なりの言葉は、規範イデオロギーとは異なり具体的な行為の指示となります。ですから、前提として、酋長と庶民は同じ具体的な状況にあらなければならない。それでは、状況の異なる諸地方を支配するには言葉が足りない。
 かくして神道が国家神道になるためには、資本主義社会という同一の生産関係を前提として、天皇を取り込んだ国家法の存在を待たなければならなかったわけです。

 
 こんな話ばっか、しかも4つめではつまりませんね。
 コーヒーブレイクも、閃かないと書けないんで、ためにならない四方山話ですが。
 自動車を見るのが好きでして、通勤時はそこそこの名のある一般道で主にトラックを眺めて通勤してきたのですが、最近、首都高を眺めたら、なんじゃ、おんなじ車ばっかり通るぞ、ってなもんで、ようするに昼間の首都高って、ミニバンだらけなんですね。エスティマとかじゃなくって、ミニミニバン。といってキューブでもない、座薬みたいなかっこのやつ。
 ミニミニバン、カッコ悪う。昔、よく軽のライトバンに乗せてもらってましたが、あっちのほうがまだかわいい。
 なんで後ろに狭っこくなるフォルムと窓枠ばかりなのかね。それよりも、何でみんな形が一緒なの? まあライトバンも形は一緒だからそんなものと思えばいいのかねえ。でも業務用なら社名も書けばいいじゃん。
 土日だとみかけないミニミニバンなんで、ほんとに流行ってんのかどうかわかんないんだけど。


(注)
 【権威】とは、私がいつもお世話になるウィキペディアでは、
「権威(けんい、Authority)とは、自発的に同意・服従を促すような能力や関係のこと。威嚇や武力によって強制的に同意・服従させる能力・関係である権力とは区別される。」
とあります。

 まあ、こういうウィキペディアはどなたかが親切に政治学の教科書から抜き書きしてくださっているんでしょうから悪口をいってはいけませんが、政治学というのは、目に映った現実をそのまま文字にすればオッケーな学問ですので、あまり信じてはいけません。
 そんな催眠術師のような能力なんぞ、誰も持ってはいません。

以下;
「古代ローマの「auctoritas」に由来する語で、助言以上命令以下であり、自発的に同意・服従を促すような能力・関係を一般的に指し示す。ただし、「自発的に」とはいっても「同意・服従」への圧力がかかっているわけで、完全に自由意志で結論を下せるわけではない。」
 (これもねえ。
  私も若いときは、初めて「ああそうだったのか」と物事を教えてもらった特定の学者や評論家には「権威」を感じまして、その人の評論なら正しそうで、寝っ転がりながらも姿勢を正して読みましたが、これに「同意・服従」への圧力があったとは思いがたいですけどね。概念というのは歴史的なものなので、一般規定だよ、という顔をすると、そこでから先は誤謬になっちゃうんですけどね。)

「他者に対して権威的であるためには、その両者がある種の価値体系、規範を共有していることを前提とする。その上で、その価値体系、規範における上位の人・地位・組織などが権威を帯びることになる。」

(これも、そんなこともありませんで、見ず知らずの人でも、旅先で道に迷ったとき、身なりもよく、眼光炯炯、いかにも自信ありげな人に、「こっちですよ」といわれたらそっちへ行きませんか? こういうのは権威だと思いますが、こんなもん価値体系・規範の共有といわれても困りますね。そりゃあ拡大解釈すればなんでも当てはまりますが、それでは発言の意味が消えます。)


宗教とは(その3)
2008-05-22 22:16:05 | 行為
 今日は仕事がそこそこめまぐるしく、といって、いまいち必死に、というところもなく、早く地に足の着いた本社に帰りたいな、というところで。今は、まあ、出向みたいなもんなんですね。別にどこで働いてもおんなじなんですが、そこは相対的にどう、という感情がありまして。人間、生死以外は全部相対的なものなんでしょう。
 そうこうしまして家に帰って、ふと目に付いて、棚にあるアサヒペンタックスSPにかぶった埃を落とすと、すでに仕事のことは忘れてしまいました。先に、このブログでニコンFのことを褒めましたけど、ペンタックスはニコンに劣りません。(けど、バッグに入れとくとシャッターが落ちちゃうのが致命的。半日で3枚は空打ちです)
 
 それはそれ。今日もコーヒーブレイクではなく。

 (その1)で、いわゆる宗教は本来の宗教なんかじゃない、といいました。
 で、(その2)で、いわゆる宗教は、宗教ではなく、ただの政治規範だ、といいました。例としてキリスト教やイスラム教がそうだと。
 で、じゃあ、それ以外は? というところで。
 
 人は将来に行為をイメージします。
 この場合、現在が不幸であれば、生物はいやな環境からは離れたがるものです。生物の母、海の中なら、スーッと泳いで遠のいていってしまうところですね。
 しかし、そうはいっても陸地では離れることはできない場合がある。あるいは離れることはできないという体制イデオローグが、武力を元に思想攻撃を掛けてくる場合がある。坊主のことですけどね。

 かくて、人は死後を夢見る。
 死後の世界とは、不幸の存在とともに、宗教が作るものです。聖徳太子時代から室町時代までの国家仏教のことです。
 でも、ほんとうは生まれ変わった後にどうであっても、人間は幸せになるわけではない。
 人は記憶の中の自分と比べて今の幸せを感ずる。
 でも生まれ変わった自分は前世の自分なんか覚えてはいない。
 さて、今の自分は過去の見知らぬ自分より幸せだからといって幸せだろうか?
 そんなことはない。不幸は不幸。幸せは幸せ。人間はおめでたいから、生きている今がよければいい。
 いずれにせよ、幸せは今の生活の中でつかむしかない。

 かくして鎌倉以後の民衆宗教は、現在を伝道します。
 南無阿弥陀仏と唱えることは往生することであるよりも、親のような神仏の存在の現在という時間での実践的確認行為なのです。
 禅にしても然り。 座することで、神仏を現在に感ずることが要目なのです。
 仏教一般について、以下同様。
 私は仏教理論など知りませんが、共同体日本においてはイデオロギー的にも現在が志向されてきたもようです。

 一方、共同体的な地域を離れたイデオロギー的キリスト教は、日本においても疎外された倫理を受け持った。
 しかして、共同体から離れた資本主義勃興期の日本では、キリスト教が知識人には鏡に映った自分の独り言の相手になったわけです。

 で、新興宗教は、と申しますと、個人の中にはこうした事実認識の残存と、できれば他者と共有したい将来がありますから、現実的に他に面白いことがなければ、誰かが提唱する権力が自己と共有される「宗教」の誘いには、普通にすすんで乗っていくことになります。これが新興宗教です。

 で、密教的政治イデオロギーですね。
 と表現すると「特定の」マルクス主義党派イデオロギーを思い浮かべる人もいると思いますがそうではない。マルクス主義一般の話です。(……一般の話なのか、って、書いた本人が突っ込んでもしょうがない)
 
 宗教とイデオロギーは似ているのではなくて、それは同じ物なのです。
 宗教意識をもってでっち上げたのが宗教であり、不平不満を体系化したのが政治イデオロギーなのです。

 あるいは宗教集団に居心地のよさを見出すのが宗教であり、
 政治行動集団に居心地のよさを見出すのが政治イデオロギー組織なのです。

 どこも違わない。
 ただ、宗教意識は客観的には事実によって否定される場合が多い。このため、いわゆる宗教性=非科学性が特徴となってはいます。
 でも、知らない人は知りませんが、政治的自称レーニン主義も事実によって否定されつくしたわけですが、誰一人こたえちゃいませんわね。こたえたのは所属組織が分解した人だけですわ。
 
 といって、マルクスもレーニン個人も間違っているわけではありませんので、ご注意を。

 なんでもいいんですが、被災地の方々とか思うわけですが、中国やビルマや、じゃなくて、悲惨なのは世界中どこでも同じなんですよね。私もスターリンになりたいな。






宗教とは(その2)
2008-05-21 22:13:04 | 行為
 おばんです。
 って関西弁だと思っていた私。まあどうでもいいけど。

 さて、前回の続き。いわゆる今生き残っている教団宗教が政治規範だ、という点です。

 今念頭にあがっているのは、本人達は「世界宗教」だと気に入っているらしいキリスト教やイスラム教です。
 それらが世界宗教なのは、すなわち、人間に本来の宗教的意識を蹴散らして平穏な地域社会を侵略できたのは、それが引き継いだ地域宗教の性格による、と、とりあえず想定できます。

 つまり、中東の茫漠とした砂漠様の地域の中では、固定的な地域共同体の宗教とはことなり、固定的な支配体制がない共同性が、しかし、支配権力を振るわざるを得ない。そんなところでは、抽象的な規範を設定するしかなかった、と、とりあえずいえます。

 他方、農村では抽象的な規範は必要ではなく、具体的に、灌漑工事には参加する、祭りへは出る、隣りの者とは助け合う、等の規範を全うすればいいわけです。
 そこには抽象的な規範はいらず、その地域に特化した具体的行動範例が必要なわけです。
 もっとも、軍隊では、毛沢東の軍のように抽象的な規範が必要となりますが。(こういうどうでもいいことを付け加えなければ私の文ももっと読みやすいと思うんですけどね。でもそうすると、後年、エンゲルスのように、いいかげんだと非難されるわけです。
 まあ観客は勝手な評論をするものです。)

「とりあえず」といっているのは、こうしたことは歴史の奥だか果てだかにうずもれて、証明はできないわけで、行為論的にはこうして説明されるということにすぎない、という意味です。
 「すぎない」にすぎないんですけど、こう見ることで次の新しい事象への適切な態度が推定されるわけで。
 つまり、「共同性の小さくなった社会で規範を貫徹するためには、一神教的規範宗教のような規範的イデオロギーが必要となる可能性が高い」みたいな。

 まあ、ともかくも、支配権力は、地域の生産活動を乗り越えて支配を貫徹しようとした場合は、抽象的な規範を活用する。そうでなければ、武力の常駐を必要とする。
 といって、抽象的規範の元は具体的文章なので、キリスト後、200年でキリスト教が支配宗教となったとして、その後1千数百年、世間ではこのいにしえのキリスト教の、当てはまるところを針小棒大、無理やりこじつけその時代の支配宗教として機能するべく事実認識的に改ざんせざるを得なかったというわけです。
 その結果が、同じ荒唐無稽な宗教の、目くそ鼻くそを笑う、未開宗教蔑視ですね。
 一方では、道徳の供給源として、支配の事実認識と、賞賛と、優越を、一手引き受けに宗教に頼んだ支配武力は、武力の及ばない未開地域の統治を、宣教師どもに頼んだ、というわけです。
 それもよしあしで、権力の衰退とともに教団教会も衰退する。
 「教団宗教」の衰退は、キリスト教信者の諸学者がいうような「世俗化」現象ではなく、単に、役立たずとなって権力に捨てられただけなのです。
 
 ああ、ふと思えば、いわゆる宗教家でも欧米では学者になれるんですね。欧米では、「科学」なんて価値はないんですよ。おしゃべりたちがえらい国家。
 だからって、別に非難しているわけではないんですが、野蛮な国家群だと思ってもおりますね。



宗教とは(その1)
2008-05-20 22:16:40 | 行為
 下にも書きましたけど、ガンダダってネットで確認したらカンダタだって。
 (ここのブログは上が新しいので、、わかりにくいですね)
 そういえば観陀多って字も浮かびますが、もともと私の知識はン十年前の若草幼稚園の紙芝居だもんで。
 芥川とかって、紙芝居書いただけでなんで文豪鬼才なんでしょうかね(河童・歯車だけはいいけど)
 
 ところで、私も宗教家と言われることもありますが、宗教の社会学的規定をしておきましょう。
 「宗教とは、人間への全ての自然的影響について、生物として当然にも相互行為する、他の生物によるわれわれ生物への行為、あるいはそれに対応するわれわれ自身の行為、それらの事実認知上の体系化のことを指し、その他の何ものでもない」、というところです。
 この生物の諸行為の認知のなかで、たまたま、「恐れ」が「畏れ」となり、あるいは「恐れ」を権力イデオロギーが「聖」と強弁するだけなのです。
 そんな我々人間の生理的行為が自然に向かって適用されると、アニミズムとなり、また儀礼となるわけです。
 
 解説。
 つまり、宗教の本源は、人間の将来に生ずる不幸の回避なんですね。それ以上のものではないんです。
 人は毎日、こうすればああなる、という行為を積み重ねて生産物を得ているわけです。
 狩猟も然り。作物生産も然り。
 ところが、一生懸命やったのにイノシシには逃げられ、麦は腐り、留守番の妻子も死んでしまう。
 なんで?
 
 自分で解釈しているうちはいいが、歴史の中で首長が(これは良い機会だ)と思って、それはお前が村の決まりを破って遊び狂っているからだ、とか言う。それが体系化される。
 まあ、そんなこんなの過程だ、といっているだけです。
 それがなぜ非合理的?
 そんなことはない。本来の宗教は事実認知なのだから、合理的なのです。
 いったい、人は、「この先は行き止まり」と他人に聞いて、回り道をすることを「宗教」と呼びますか?
 違うでしょ。単に、それは事実と信じただけです。まあ、ウソかもしれないけど、でもとりあえず言うとおりにしよう、っていうかね。
 本来の宗教はそれと同じです。
 上棟式っていうのがあります。家を建てるときはお祭りをしなければ壊れる、と誰かに言われれば、よほど貧乏でなければ、「しょうがない、お祭りをしてもらおう」と思う。それのどこが非合理的な宗教?
 
 もちろん、金目当てに「お祭りをしなさいよ」などとささやく神官が掲げるものは宗教です。しかし、それは人間一般が原初的に持つものではありません。権力とつるんだ「宗教家」の存在形態です。
 「本来の宗教」は、キリスト教その他の支配階級の宗教信者にとっては、すでに神話の世界の話。
 「いわゆる宗教」とは、人間の宗教ではなく、支配のイデオロギー、及びイデオローグの生計の途のことです。
 
 キリスト教、イスラム教は、「政治規範のイデオロギー」なのです。なんら宗教ではない。
 それは、本来、自然全般に適用される擬人、正しくは擬生物の過程を、権力ある「神」なるものだけに適用して、人間的本質を権力に変容させた支配イデオロギーなのです。
 植民地支配時において、よく言われるように宣教師キリスト教は、土着の宗教を取り込んだわけではないのです。
 支配教キリスト教と土着の本来宗教とは、ぜんぜん別個のものであり、支配教キリスト教は政治規範であったため、齟齬なく両立しただけのことです。それはイスラム教でも同じことです。ちょっと違うのは、イスラム教のほうが、対抗権力的支配教だ、というだけ。
 
 人の行為は、将来の設定の仕方に規定されます。
 宗教だとか、実存主義だとか、その他種々の生き方は、これに属することです。
 具体的にいえば、消費物資の入手に追われる時代はその他の観念(活動の所産)は必要ではありません。とくに本来の宗教なんてものは、根源的には消費物資の入手の合間の余暇の将来設定に属するものです。おなかがいっぱいになってふと景色を見たら、死んだ親を思い出した。親にもなんか食べさせたやりたいな。そう思うからお供えをする。それだけのことです。
 このとき賞賛と優越、その他の事情が発生します。
 「俺の親は首長だぜ、お前だって世話になったろ」
 あるいは、生活共同体においては、このヒマさ=将来設定の不確実さの中で、共同体的同一性の確認が生ずることもあります。
 「みんなで酒飲んで騒ごうぜ。今年は豊作だ。作物なんてどうせとっといたって腐っちまうさ。」
 そういう庶民の社会過程を見ながら、支配者は、他にイデオロギー=賞賛も優越もない世界にあって、宗教を巧みに利用し、というよりも自分の賞賛と優越を拡大利用して、ともかくも、こうした原始宗教(本来の宗教)に乗っかって支配の確認を行って来たわけです。

 「いわゆる宗教」の宗派別の教義とは、その時代にあわせた道徳の教義です。
 支配者に絡み取られた宗教は、支配者の賞賛と優越を、娯楽映画のごとく映し出し、その結果、その時代の社会秩序を説明します。
 つまり、「お前の10代前の先祖は神だったぞよ。お前も神にならなくてはな。」
 同じ言葉を民衆に言えば、「お前の王の10代前の先祖は神だったぞよ。お前も神になる王に仕えなくてはな。」
 これが支配イデオロギーの本質です。
 支配者に取り入る、という、私以外の誰だってする行為とは、そのまま論理的に、被支配者を支配する論理なのです。
 
 なぜ、マルキストはこういう事実を広めて批判しないのか。
 被支配者を支配するためには、それは言ってはならないことなのです。前衛主義者の身に返ってくる真理なんでね。

   長くなりますので、ちょっと切ります。


シジフォスの神話
2008-05-18 22:45:25 | 行為
 カミュという一昔前のフランスの思想家の著作に、「シジフォスの神話」というものがあります。内容はネットで検索してもらうとして、かいつまんで言えば、シジフォスさんが神に岩山の頂上に岩を押し上げる仕事を課されてしまった。神は性の悪いことに岩が上がるとまた蹴落としてしまうんですね(そうは書いてないけど)、でも彼は黙々とその仕事を続ける。神に蹴落とされた石を何万回もただ押し上げる。
 人間なんてそんなものだ、という話です。

 私もその本がはやった時分に思春期だったもので、実に納得したものですが、今考えてみると情けない。
 結局それは、資本主義社会で生産労働から離された学生やサラリーマンの生きる姿を表しただけのことでした。
 米作ってる人に、「その米、できたら食べる前に燃やしちゃうぜ」っていったら殺されて当然ですぜ。

 こういうのは、行為の成果が、個人の身体が「離れた」事態を指すわけで。
 結局、行為っていうのは、関係の中に、埋め込まれている。
 資本主義では、本来の行為の失敗の認識の中で、しかしそれを続けなければならないという強制のなかで、その認識も強制されていく。
 まあ、行為者の視点から主体的にいえば、身体から離れた行為のみを続けることができる根拠を認識の中に定めていく、そんな作業をとっていくわけです。
 それは、人間やその他の生物の自然的過程であれば、イノシシを捕りに行ったが捕れずに、行った先の小川の水を飲むしかなかった。それでも住まいの洞窟の中に溜まったドブ水を飲むよりはましだ。明日もこの地域で狩をするしかない。とすれば、イノシシが捕れなくともキレイな水が飲めれば満足するしかない。
 そんな過程ですね。
 「満足」とは行為の将来の確保だから、「キレイな水飲み」が「イノシシ捕り」に変わって行為の将来となるのは、行為本来の過程なのです。
 が残念ながら、それでは早晩栄養不足で死んでしまう。
 その通りに世界中の人が死んでいます。

 前回のからみとして、今回も前回やめるといった行為の話じゃないかって?
 
 今のは行為の原理の話じゃなくて、個別の行為の話なんですね。
 少なくともぼくにとっては、ぼくが生きている、あるいは生きてきた、話です。
 ところが原理には人が出てこない。そんな話を展開しても、それはつまらない。
 つまらないけど、誰かが人知れず従事するしかない、みたいなところです。





お茶飲み話
2008-05-18 22:19:07 | 社会学の基礎概念
 蚊が出てきました。

 とにかくメス系の生物とは仲が良いもので、夜中、痒いじゃん、なんのアレルギーか、と思ったら安心して血を吸われていて、ところがこちらも蚊にはあまり同情がなく、昨夜は幸い押入れにしまわなかった液体ベープに頼ってようやく眠れました。

 そうじゃなくて、前回、「行為」の話に首が入ったので、どうしようかなあ、でも深入りすると面白くないんだよな、みたいなかっとうで迷っておりましたが、1行書いて、後はなかったことにすればいいじゃないか、というところで決めました。
 つまり、行為っていうのは、外的な強制と、その強制をどう認識していくか、たとえば相手に「これに歯向かうと最悪な生活を続けなければならない」と思うか、あるいは「歯向かえば引かせられるんだ」と認識するか、みたいなところで違うんだ、と。
 また外的な強制も「歯向かえば即殺されてしまう強制」と、「うじうじと生きていける強制とは別な種類なんだ」、みたいなことがあるんだ、ということです。

なんて書いただけでつまんないな。
やめてよかった
やめてないか。
 ともかくも、とりあえず、今日思ったことといえば、世の中には「世界中の子供が笑ったときに、空もまた笑うだろう」なんて言葉があるそうで。(朝日新聞にでてました)
 この言葉を造った人の善意はわかりますが、残念でしたね、違います、ということでして。
 子供達は笑うこともできる。明日のご飯がなくて、子供にみんなあげて親がどれだけ腹を空かしているなんて知らないから。
 そうじゃねえよ。
 1日働いて1月10万円、あるいは肉体労働で10万円、あるいは図書館の軽労働で10万円、なんであれ1月10万円で生きている若人を見て、空よ、笑ってくれるなよ。
ということです。
 最近、ガンダダのような年寄りの発言を聞く機会が多くてですね。もう、ふざけんでくれな、みたいなこともあります。
 ということで、別な話題に移ります。

    ( ps.「カンダタ」だって。かもね。原著未確認)





よもぎ餅の労働と資本主義
2008-05-05 21:18:43 | 社会学の基礎概念
 子供の日ですね。
 もっとも子供の話は無視して、この時分は柏もち。
 白いのと一緒に、柏の葉の中に緑色のが入ってたりしますが、どうもあれは色彩感覚が悪くないですか?
 ヨモギは別によもぎ餅として食べたい気がします。

 当家辺りでもしばらく前まではヨモギが採れた(摘めた)のですが、いつの間にかそんな空き地もなくなってしまいました。
 まあ新宿まで30分ですので。

 で、今日は、よもぎ餅の話。

 世の中、よもぎ餅を作る仕事と、京名物よもぎ餅 「奥嵯峨」 を作る仕事がありまして。
  って、「奥嵯峨」なんて知らないんですけどね。『京都・和菓子』でyahoo検索したら一番で出てきたもんで。

 今日は、この2つの仕事が、似ているようでぜんぜん違う、というテーマです。労働には3種類あるんですね。

 うちのような田舎の人間がよもぎ餅を作るのは、甘くて美味しい物を食べたいからでしょうね。
 それは食べることで完結する。まあ、できればみんなで楽しく食べられたらもっといいですけどね。仲の良くない義父のたぐいがむっつりして食べても、まあ、仕事としては完結してます。
 
 ところが和菓子屋さんはそうではない。子供が「奥嵯峨」に手をつけたらドヤされるくらいじゃすまないんじゃないですかね。
 こういう仕事は、物を作るから純粋な生産労働に見えるけれど、そうではない。
 それらはまず、売れなければいけない。
 
   (なんだ、また「商品労働」の話か、と思わないでください。今日は、「奢移労働」というものの話です。)

 奢移労働(贅沢品を作る労働)っていうのは、典型的にはサルタンの宮殿の料理人、近世ドイツの陶芸人、どこにでもいるドレス作り人、なんかの仕事のことですね。別に売れなくたって、それは奢移労働なんです。商品でなくてもいい。
 そんな彼らの仕事は、純粋な生産労働に見えてそうではない。本当は、料理一般は「最高級」と呼ばれる必要はないし、陶芸であれドレスであれ別に使えればいいし着られればいい、はず。
 でも、彼らの仕事は、製品の製作で完了するわけではありません。その作品が権力者によって賞賛されなければ完結しない。
 そうした偏頗な(偏った評価を受ける)労働です。
 一見、物質的な労働に見えるけれども、実は精神的な、人間と人間との関係的な、心の中を通してようやく完結できる幻想的な、労働なのです。

 で、それは「よもぎ餅労働」とどこが違う?
 実は、生理性を超えた労働とは、行為の原理からして、賞賛と優越を行為の要因にせざるを得ないのです。

 以前に「疎外」について、疎外の意味は2通りあり、
 その1は、「行為論的に、自分の無力や、自分と他者との関係のなさによって自己の将来が獲得できない」ことを指し、これは普遍的に生ずることだ、といいました。(その2は、以前のテーマでしたね)
 が、これは日常的には普遍的に生ずるのですが(たとえばよもぎ摘みから帰ってくるときに、かわいい猫がいたとして、猫に手を振って無視されると疎外的になります。って、ちょっと本質的すぎましたか?)
 労働のなかで普遍的に生ずるのは、「自己疎外論者」のような周辺の思想家ではなく本来のマルクス主義者が述べてきたように、資本主義経済の中において、ということになります。
 ただし、その理由はマルクス主義者が述べてきた理由ではありません。
 
 奢移労働の生産結果が奢移品と同じく扱われることと同時に、その労働結果「奥嵯峨」は、私の作る「田舎よもぎ餅」と違って、カネによって替われなければ捨てるしかない消耗品であり、資本主義的景気変動を受け、同じ奢移品の「奥球磨」や「奥河内」や「奥大和」の生産(そんなのないですが)にたずさわる100人の奢移労働者のうち、奢移の象徴である某1種「奥嵯峨」以外は不要である、と結果認識されることになります。それは結果認識ではありますが、不可避なことでもあります。

 一方、資本主義下での全ての人間と同様に、一流品の生産者もまた「同じ労働者」であることです。
 というよりは奢移労働者がその他の人間の代行と化すためには、つまり時の名手以外が話のタネにするような話題性を持つためには、その生産者が擬似的な労働者であることが必須でもあるわけです。労働者が彼の人生の中の「同じ」部分として投影するための「労働者性」(および憧れとしての資本家性)が不可欠なのです。
 もともと、奢移労働は自体は無駄な労働にあり、なくとも誰も困りません。商品としての「草餅」があれば、一流品などいらないのです。
 しかしこれが経済システムに繰り込まれるとそうではない。
 この前段で、繰り込まれる背景と繰り込まれる結果というものがありまして、資本主義は、人を「全的労働」から引き離す。
 それは本来的に人間にとって全的な労働であった保証はないのですが、とにかく、そこから引き剥がされたとき、人はそれまでの不十分な環境をさえ「全的」と評するものです。もっとも評するのは、たかだかそれまでいい暮らしをしていた地主階級だけですけど。
 ま、それはおいて、資本主義システムの中で、ただの一群の草餅労働者とは別に、奢移労働を代行する一群の小企業者または賃金労働者が発生します。
 このとき発生して成立した奢移労働の代行は、奢移労働者にとって見れば一つも奢移労働ではありません。
 しつこく私が言う、ただの商品労働です。
 ただ、奢移労働は、人間がみるだけの追体験、資本主義的評価の発生という現象の基礎を形作ります。
 もちろん、奢移労働自体も「なす」という幻想を作るものです。
 つまり、奢移労働者が得るものは、脳内イメージによる賞賛とそれが持ち運ぶ記憶の中の優越であること。(トップだけは具体的にカネを手に入れますけどね)
 そしてそれは爛熟した資本主義的第3次産業では普遍的な幻想の労働と同じ経過をたどることになります。
 

 まとめです。
 奢移労働は、人の賞賛を得なければ、行為の完結を、つまり満足を、得られないこと。
 そしてそれは、他の第3次産業でも同様な幻想商品労働であること。 
 こうして爛熟した資本主義の中では、人は幻想の中に住むことで、「何者か」でなくてはならない観念=他人の評価の中での観念に、強迫される。それが、自分の行為の一瞬先の将来の幻想だからです。
 
 
 さてはて、話はまだ続きまして、元に戻しまして、労働には3種類ある、という話でした。
 先のよもぎ餅の意義にちょっと引っかかった人、そう、私はちょっとごまかしましてね。
 今の世の中でよもぎ餅を作るのは、別に美味しいものを食べたいわけじゃない。家族に美味しいものを食べさせたいからなんですね。子供がほっぺたの落ちそうな顔をさせてお餅をかぶりつくのが見たい、それが本来の奢移労働なのです。
 本来ってなんだ?
 くだらない問いかけですね。
 私は単に「そう思いませんか?」といいましょう。
 子供に喜んでもらうのと、偉そうな顔をしてるだけの御簾の先の王様が喜ぶのを見るのが、同じだ、と思うお子ちゃまと話すほど暇じゃござんせんね。ねえ、サラリーマンの皆の衆。
 本質的には、生理性の最低限をクリアした段階では、自分の行為によって生理的に具体的な人間の反応をこの自分の身体で体験する、これが奢移=ぜーたくです。最低限の後には、「好悪」に代表される生理性が残っているわけです。
 
 人間の労働には3通りある。
 生理的に必ず果たさなければならない労働と、
 目の前にある人間や生物とに、身体的な関係を結んでいく労働と、
 幻想の中で、生理性や身体的な関係を追体験するだけの労働と。

 本当の贅沢は、2番目です。





社会科学の実証性
2008-04-27 11:01:12 | 社会学の基礎概念
 学問入門的なテーマで、社会科学では実験ができないから科学ではない、というのがあります。
 自然科学では、仮説を出して、実験として、その仮説過程が現実に現れるように環境を整えてやると現象が再現できることを客観的に示す、それによって仮説が証明できるから科学として認められる。が社会科学では現実に社会を動かすことができないから、経験科学とはいえない。
 というわけです。
 
 なんだかねえ。評論家のキレイ事ですね。どこのどなた様がそんな完璧な実験をおやりになってらっしゃるんでしょうか? 実験仮説なんて穴だらけじゃないですか。やみくもに実験を繰り返し、あげくは、偶然できた結果を論文誌に書いてノーベル賞をお受けになる人ばかり。

 一方、社会科学は動き続ける現実が眼前にあります。
 この眼前の現実の動きを仮説によってまとめながら、次の展開を予想する。
 展開どおりであればこの仮説はどうも正しい。
 その正しさは、ノーベル賞級の実験よりは確からしいものです。そうたくさん仮説が立てられるわけじゃないですからね。10の仮説の1は正しい、か、どれも正しくないが次の社会的実験の基礎にはなる、誤った仮説です。
 とゆうわけで、社会科学というのは本質的に、実証的なんです。empiricalって書きますけどね。
 さらにいうと、統計処理できれば実証的というのも子供レベルのキレイ事ですね。
 そういうのは単に測定的measurableであるにすぎません。内容がなきゃ科学じゃないですからね。

 で、ここんとこの興味は、国家権力が現代の宗教=大学教授・学識者を動員してセットした新規医療制度がどう動くか。新聞の論説委員もちゃんと取り込んだのにねえ。薄情なもんさ。あたしゃもちろん反対派ですが、小泉の頃はそりゃスターリンもびっくりの革命的論議だったですぜ。
 前の首相があほで、、、って名前も忘れてウィキペディアしてしまいました。弱みを見せたら食いつくのが若い人間に限らず、戦後日本人でんがな。
 ま、興味深く拝見。こういうのは歴史家が評論する頃にはウソだらけになっちゃうからね。



ナショナルミニマムを守るのは誰か

2008-04-22 21:14:38 | その他
お菓子を3種類持って食べながら歩いていたとき、子供達が寄ってたかって「お菓子くれよお」とわめきだした。さて、あなたはどうしますか?

一番要らないお菓子をあげる。正解。

今日の朝日新聞で、200億円の図書費を地方自治体にあげたら、44億円は別の用途に使われた、とありました。
その同じ新聞に、朝日新聞記者の「今村尚徳」という人が、保育園基準の問題で、「地方自治体に権限もカネもあげたらどうか」と書いていました。

もうお子ちゃまなんだから。
やせてもかれても国家公務員は国のために生きている人間です。保育なんてそんな人民にとって大事なものをむざむざ渡すものか。そんなのは汚職の弊害の類の問題じゃない。
道路財源だって、なくしちゃったら、地方じゃ道路なんか作れないとですよ。
子供やアリやヤクザのように、甘いところにはムシたちが群がるんだ。地主や商店主や工場主や (ま、総称して資本家っていいますけどね)、それに追随した、税金は1円でも払いたくない連中のことです。
泣く子と地頭に勝てるのは国だけ。そうでしょ、地方自治体幹部様。

でも国家公務員だってバカじゃない、「図書費なんか200億も要らない」。そう判断したから、国家公務員は払い下げたのです。
他の用途に使った? 「そら見たことか」と国家公務員は言うだけです。

それでお菓子の話。
逆にいえば、国家公務員は「もうこんなもの要らねえな。といって、なくすと議員がうるせえしな」と思ったものを地方へ払い下げるわけです。
それでいい。
国家公務員が日本人民の最低限を保障しなかったら弱い人々はどうなるんでしょう。
東京都や神奈川県ではだいじょぶですよ。では島根県や高知県では?
何が地方自治だ、てめえの懐のことばっか言ってんじゃねえよ、というのが感想ですね。
日本国家社会主義? それが嫌な人間は、まずは自分がウヨクかな、と疑ったほうがいい。

で、その今村という人に、「ちょっとこの20年間、地方へ配分した財源の行方でも調べたらどお?」と、メールでもしようかと思いましたが、こっちへ振られて調べ直す羽目になると時間の無駄なので、やめて、彼氏のためにここに書き留めた次第です。

   こうゆうのあんまり好きじゃないんですけどね。こっちも自称アナーキストだから。
   でも、きれいごとでカネを欲しがる連中 (や、その尻馬に乗るアホ)よりも国家の使用人のほうが
   私心がないだけ好きです。






白黒写真試論(その1)
2008-04-14 21:42:11 | コーヒーブレイク
 人が写した写真を見ていると、白黒の写真とカラーの写真のでは明らかに違う感覚が生まれます。

 携帯などのデジカメ写真の場合はほとんど関係ありませんけどね。世間にはそれでも白黒写真にこだわる写真家がいます。

 思うに、思うだけですが、カラーだと、情報が大きすぎるのですね。
 生物は光の友。人間の遺伝子の4割は、植物と同じだそうです。
 お日様さえ照っていれば生きていける、そんな確信でしょうかね。

 白黒の写真から受ける刺激は非常に限定的です。
 被写体がよほど意義深いものであれば、その他のことは考えに浮かばない。まあ、恋人とかアイドルとかエロ写真の類ですね。
 被写体がどうにもこうにも自分の記憶との関連がつかない場合は、「いったい何を写したんだ、それにしても淋しいシーンだな、だから白黒はいやだ」みたいなものです。白黒の写真は、感情が刺激されない限り、刺激されないという事実だけが残り、ほんとに淋しい。

 こんなことを確認してもしょうがありませんが、昭和40年のある街角の白黒写真と、同じ場面のカラー写真があった場合、前者では今と比較してありえない要素が目に入ります。「えー、なに、いつの写真?」
 後者では、「あれ、見たような写真。なんだ、やっちゃんちの裏の路地じゃん。でもなんか変だな」

 というわけで、人は、眼前のカラフルな配合を伝えたい場合以外は、白黒の写真をとるのがよいのです。

   今日はアップ4回目ですね。もしも、「こいつ勉強したくないだけじゃないか」と思った人がいたら、その人は正しい。




マルクス主義の問題点(その3)
2008-04-14 14:18:21 | その他
前回、エンゲルスがいればマルクスなんて要らないと書いたところですが、マルクスのオリジナルで有名なところが、「労働力」と「労働」の違い。

なんなんですかね、これ。マルクスなんて中学校3年以来まじめに読んでいるところですがいまだに理解できません。

【初めの例(労働力)】
趣旨的には、
1 労働力は人間が働く力である。
2 人間は賃金と引き換えに労働力を売る。
    これは、賃金は労働力(明日の働く力)を作る消費物資と等価だ、ということです。
3 ところで、現実の労働者が作るものは、消費物資だけではない。資本家の取り分を作っている。
4 この資本家の取り分は労働者の賃金に入っていない。労働者は賃金にないものを作らされている。
  これを搾取という。資本主義の詐欺だ。

というわけですね。
だからなんじゃい、てなもんです。等価交換に文句つけんなよ。

【次の例(労働)】
1 労働者は労働を売る。
2 資本家は代金として賃金を与える。
3 労働は資本家の消費物資も作っているのに、賃金には労働者の肉体の再生産分しかはいっていない。
4 従って、資本家は労働者から搾取している。資本家は泥棒と一緒だ。

じゃ、なんでいけないんですかね。こちの方が現実のままじゃないか。


どちらも同じ現実ではあります。

【初めの例(労働力)】では、資本家は、実際、労働力を買おうとしますから
「労働者は俺様に労働する力を売ったんだから、あとは搾り取れるだけ働かせることができる。労働強化? 売ったものを出し惜しみするんじゃねえ。」
という資本家の理屈の方が正しいと思うんですけどね。

労働者は、資本家がなんと言おうと、苦しい思いをして労働をしますからそんな理屈は受け入れられない。
【次の例(労働)】では
「労働者が売るのは労働だ。ちゃんとそれを取り返せる賃金を寄こせ。
 おっと、これじゃあ足りないぜ。資本家のお前の分も作ってやってんだからな。お前の家屋敷も寄こせよ」
となると思うんですけどね。
マルクスを支持しているって口では言う労働者も、実はみんなこう思ってるんじゃないかな。

まあ、どっちだっていいけど、マルクス主義者が初心者に向かってさも偉そうに「分かってないな。労働者が売るのは労働じゃなくて労働力だよ」なんていうのを聞くと、おめえは何を分かってんだよ、といいたくなりますね。

  いや、ほんと。労働強化は理屈上何が悪いの? あんたがたの説じゃ悪くないでしょ?
  悪いのは「資本家がいいわけない」というレッテルだけ。労働者の痛みなどなくなってるじゃん。
  何が「マルクスの賃金論で合理化に反対せよ」だか。

「労働力」論の積極点は、「そんなふうに等価交換をせざるをえない立場に立たされてしまう理不尽さ、や、資本家に反論できない理不尽さは、すべて労働力の商品化によるものだ。資本主義は非人道的だ」とかいう哲学的なお茶飲み話の提供だけ。
そんなものは有閑階級の遊びだ。ア、ソ、ビ。





唯物史観の問題点(その2)
2008-04-14 11:56:02 | その他
前回に引き続き、唯物史観の問題点。「社会を動かす原動力は、生産力と生産関係の矛盾である」
まあ唯物史観の基本中の基本。
よいんですけどね。でも、それはどういう事態か、は、わかってないと。

ここでの問題は、生産力というものです。
確かに生産力は直接に歴史を変えるのですが、生産力を動かす要因というものがあります。
どうもしかし、エンゲルスが分かっていたと思われるように、本当の要因は生産方法なのです。生産方法が変化することによって生産力が増加する。

日本には「生産力とは人間力だ」なんていった有名学者がいました。これは社会学者に喜ばれましたけどね。私も学部1年のとき、これは良い言葉だ、と思ったものです。経営学でも後進国進出が課題のときでしたので、「そうだそうだ。現地人を働かせるのが大変なんだよね」みたいなところだったと思います。
が、そういうもんじゃない。
ごらんのとおり人間力など20年で変わる。頭に可塑性のある年齢時なら、生理性と優越と賞賛とによって変わる。「人間は規制によって水路化される」とまとめたいところですが、わかりにくいかしら?

とにかく、生産力はそんなものでは上がらない。工場勤務にフィットすべく改造された人間は、改良された生産手段によらなければ生産力を上げることはできない。
生産方法とは、狭義の生産手段−−機械等のみを指すわけではありません。
はるか昔、限定された生産育成によってのみ支えられた採集経済は、米その他の単位栄養量の高い経済にとって替わられました。
これによって得られた生産力と保存力の増大は、決定的に社会を変えました。
これは生産方法の移入による、というのが普通の日本語です。

余談ですが、これはエンゲルスは認識していたようでもありまして、だいたいエンゲルスという人は、サルトルがけなしたりと、マルクス主義が哲学だった昔はやけに評判が悪かったのですが(今は誰も何もいわない、ということで)、とんでもないことだと思いますね。表現方法は普通の人向けにやさしく書いているのでアバウトですが、マルクスより数段社会科学を進めた人です。
マルクスがいなくともエンゲルスがいれば歴史は変わらなかった。もっとも、人は一人では仕事ができない、ということはありますが。エンゲルスが第1バイオリンだったほうが世の中のためだった気がしますね。

閑話休題、では生産方法はどうやって変わる?
事実の認識です。
事実の認識は決して上部構造ではありません。隈の著作でしつこく述べたように、知識は歴史を動かすのです。

も一つ余談ですが、もちろん、科学の普及は上部構造です。大学の学問など科学ではない、といっておくと論争的でよいですね。なにいってんだ、と怒る気のある学者は事実を探求してらっしゃるのでしょう。しかし、それは「大学の学問」ではなく、「あなたの科学」です。まあ、面倒なのでやめときます。






唯物史観の問題点(その1)
2008-04-14 10:53:01 | その他
 (今日は代休)
 マルクス主義の通説では、私的所有を共同所有にすると、社会主義になる、というお題目がありまして。これが初めの問題点です。
「資本主義の基本矛盾は、けっきょくのところ生産の社会的性格と所有の私的性格との矛盾であり、資本家階級と労働者階級との階級的矛盾です」なので「資本家の私的所有制をなくして、生産手段の社会的・集団的所有制をうちたてることによって」基本矛盾を解決するんだ(某入門書)、てなことになるんですね。

 でも、もともと私的所有を声高に唱えること自体、政治的な話で、これは古くはアナーキストの悪口をいいたいマルクスや、20世紀では通説派の政治党派が、なんとか国家所有に話を持っていきたいということ以外にありません。

 本来、個人の必要は「占有的形態」です。モノというのは自分が使えればいい。使っているものを他人がとらなければいい。
 だから、個人行為者の立場に立てば、「社会的所有がいい」などというのは科学ではなくイデオロギーであることはすぐわかる。ですが、マルクス主義者はイデオローグでもあるので、そこから離れるのは大変です。
 さっきもネットで確認してましたら、さすがに人気のない「社会主義論壇」で、本来、通説派が頭にズラっと並ぶべきところ、こういっちゃなんですが昔ならごくマイナーな旧・新左翼のサイトが3番目に出まして、そこでは優に原稿用紙80枚を超える勢いで、この問題点の周辺を回っていました。疑問をお持ちになるのは良いことですが、こんな単純な事情に、何をぐずぐずいう必要があるのかぜんぜん理解できません。
(「個人行為者の立場に立たなければわからない」というのも、必ずしも論理的必然ではなくて、性格の分布のようなところもあるんですが。まあ、第1に経験値としてそういう人間が多い、ということ。第2に、これは論理的な話で、そういう情報が、対抗権力として、賞賛と優越を得て、資本主義商品の売却単位として広がっていく、ということにはなります)。

 「所有」というのは(国家)権力によって占有的権利が確定されている事態を指します。
 もともと「権利」というものはそういうものなんですけどね。

 私的所有が悪くて支配社会や資本主義社会ができたわけではありません。逆です。
 武力権力によって経済的諸関係が認可され、あるいは国家権力によって相対的に小さな権力と経済権力が認可され、その結果、経済権力がはびこった場合が私的所有制度なのです。
 といっても、「経済権力」というものがあるわけではなくて、国家的武力によって私的所有(とそれに基づいた契約)を支持された経済的占有者の存在を指すだけなんですが、彼らは国家の武力を使用することを認可されているわけです。
 なお、国家自体が私的所有だ、とかって言う人もあるようですが、これも意味なくて、「権力は占有する。文句あるのか」っていうだけで、所有概念なんてまるで該当しない事象です。

 とにかく、こういうわけで、当然、私的所有の排斥によって排除できるものは、弱小権力とこれらの経済権力のみなのです。経済権力から所有の権利を取ってしまったら、あいまいな占有しか残らない。あいまいな占有は、人的武力によっていつでも覆される。

なのですが、国家権力を使用せんと待ち構えている人間は,それ以上のことをいう気がない。国家所有ならいいんだよ、いや? じゃ、集団的所有くらいで、、、なんてスローガンでいうだけ。

通説マルクス主義者の諸君は、共同所有後、何をもって国家が死滅するというんですかね。
資本主義的搾取は消滅するかもしれないが、所有のある限り(これは因果関係が逆ですが)、国家は死滅しない。



20歳の記憶
2008-04-06 17:07:32 | コーヒーブレイク
勤め先の近くにも桜が咲きました。
花見の名所の近くですが、そちらは人ばかりなのでやめて、反対側の裏町へ。
古いけれど無名な天神様から閑散とした住宅街の道をたどれば、突然まだアスファルトも黒々とした幅広の新設道路と建築途上の巨大なビルが目に飛び込みました。そういえばここは20歳の頃たずねた友達の友達のアパートのあたり、のはず。

その頃学生アパートといったら、池袋、大塚といった繁華街裏の木造2階家4畳半流し付きというのが定番のところ、彼氏は学生じゃなかったみたいで、幹線道路から入った低層とはいえコンクリートのビル街で、その3階辺りの3部屋ほどもある事務所のような住処がそこでした。

  蛍光灯の下の暗い殺風景な部屋で、いったいどんな話をしていたのか記憶のかけらもありません。
  知らない人たちと知らない話をした、ということなんでしょう。
  翌朝、飲み残したサントリーホワイトが香りも飛んで色水のようにコップに残り、
  ああ、これが安ウイスキーというものかと思った覚えだけがあります。
  今では当家ではホワイトなんて高級なんですけどね。

あったはずのアパートのビルの場所を捜して、といっても覚えているのは、早朝の電車に乗るために皆で向かった幹線道路へ出るわき道の光景だけ。
そう、そこも再開発で広々とした空間が鉄板で囲まれている地域になっていました。
ここには2年前に転勤してきたんですが、こんなことならもっと前に訪ねてくればよかった。

  何もなかった20歳の風景ですが、それも私にとっては昨日のことと同じ。
  でも、どうもそういう記憶の持ち方は他の人はほとんどしないんだ、
  ということが最近ようやくわかってきました。




自然科学の独創性
2008-03-29 11:27:35 | その他
 最近気付いたのですが、世間には 「天才科学者」 と呼ばれる人がいまして、大はアインシュタイン、小はその辺の大学の先生まで、何が天才かというと、 「独創的だから」 という。そこからおかげさまで 「子供たちの独創性を育む教育を」なんて、分かったような話が出てきます。 けど、そりゃウソっぽいな、と。

 ノーベル賞級の自然科学者なんて、数学者も含めて、たった一つか二つの思い付きしか持ってないじゃないですか?
 あとはただの努力でしょ。
 そんなことはよく言われてる?
 まあ、それを思いついたわけじゃなくてですね。

「自然科学者に比べたら社会科学者の思いつきなんか、山のようだ」 ということに気付いたわけで。

 思いつきを一つか二つしかしたことのない研究者は、社会科学では博士課程くらいですよね。もちろん社会科学者の思いつきなんか役にも立たないことだらけだけど、何がいいたいかというと、自然科学に独創性なんかいらない、努力さえあればいい、ということで。一つや二つのアイデアなんて、誰だって思いつけるって。自然科学者に天才などいない。頭の早い奴と努力家だけだ。(なお、4つも5つもある、とか言われても困りまして。「山のよう」と比べてもらわないと)

 で、ようやく腑に落ちたんですけどね。
 中学校までは勉強なんかしなくていい。農業や職人作業、手仕事で、「自分で考える方法」 を身に付ければ「天才科学者」くらいにはなれる、と。

    べつに、自然科学者をバカにしているわけではなくてですね。
    独創性なんてウソだ、といってるわけで。
    社会科学者なんてみんなバカに近いしね。
    努力してみろ、といわれてもしょうがないしですね。


 なんていう思い付きを、自然科学者はほとんどしてないんじゃないか、ってことでした。




「普遍的に良い」規範
2008-03-22 13:27:42 | その他
 (これは前回の続きです)

 個人個人の理想として扱われる規範とは、人間界においては、他者の存在価値です。
 つまり、他者の存在を得たいときに、その存在となってくれる、という中身を持った規範が、社会においての理想となります。
 個人が苦しいときに助けてくれる存在、寂しいときに傍にいてくれる存在、悲しいときに癒してくれる存在、それらの他者を作り上げる規範が、どの世界においても良い規範となり、これを体現しようとする態度が賞賛の対象となります。

 そして、この普遍的価値を閉ざすものが、「金儲けに暮れる日々」「生きるためという美名において他者をないがしろにする日々」です。
 これが資本主義の原罪なのです。
 かくて、資本主義の下では、誰がどんな詭弁を使おうと、どんな弁護をしようと、社会の理想は存在しない。存在するのは「そんなこといったって」という子供のような抗弁と、同業者の理想=「金持ちになるのはいいことだよ」だけ。
 ああ、まだあった。支配者の被支配者が持って欲しい理想。「国家のために死ぬのはいいことだよ」
 まあ、迷惑にならないように死んでください。

   

疎外と資本主義
2008-03-22 13:21:47 | その他
 先週、すごく久しぶりに、旅行してきました。
 広島市とそのすぐそばの島で1泊。
 焼きガキ、土手鍋、広島お好み焼きと一通り食べてきましたが、実はただのカキフライが一番おいしかったりして。
 よかったのは、人が良かったこと。
 直近では1年前に上海へいったのが旅行の最後で、ひどい人間ばかりだったことで良さがひときわなのか。(西安は人のいいとこです)
 でも、過去、日本30数ヶ都道府県へ行きましたがこんなにいやな人のいなかったところも記憶にない。
 総じて海岸都市っていい人が多い気もするんだけど、どんなものでしょうか。
 
 で、帰れば東京。
 なんで町にいやな奴ばっかり目に付くんだろうかねえ。やっぱ疎外されてんだろうか。
 ってことで、テーマは「疎外」。新しい人は知らない言葉なんでしょうね。
 「疎外」っていう言葉は、自分が行為してもその行為で自分の思ったことが実現できないような状態に使います。「疎外されている」っていう表現は、「人間らしい生活をしていないんで、本来の人間らしい行動ができなくなっている」といいたいときに使います。
 
 このような疎外と呼ばれる現象には、2種類あります、ってことは旧い人も知りません。
 
 まず、行為論的に、自分の無力や、自分と他者との関係のなさによって自己の将来が獲得できない「疎外」。
 こっちが人間に普遍的に生ずる本来の「疎外」なんですけど、現実に使われてきたのが次に挙げる「疎外」で、今日はそちらがテーマ。
 
 で、第2として、自分が2つに分裂することにより、観念ではこちらが本物の自分だと思っている将来が獲得できないという疎外。「自己疎外」といいますね。「私は人間だからそれらしい生き方をしたいのだが、この世ではそういうふうには生きられない」って意味合いです。
 戦後、先進諸国ではずいぶん後者の疎外が問題とされてきました。歴史の一時点の問題でしかないといえないこともないんですけどね。
 つまり、それまで共同体からいろいろな規制を受けてきた中で、「理想的な自分」というものも共同体から与えられてきた、そんな生活から、「個人の自由」という生活に移る過渡期に生じた問題です。この過渡期の実体である資本主義の爛熟という生活的基礎の中で、それまでの「良い」規範と、「食うだけの生活、後は娯楽」という生活に矛盾が生じてしまったという事態です。
 そう、ほんとは、これは「疎外」というよりは「矛盾」と呼ぶほうが適切だと思いますけどね。
 資本主義が世界を覆った社会では、すでに共同体的規範がなくなり、「良い」規範は、名残のように残る「人的付き合い」に限定されてしまう。今では、自己疎外など、若干社会に残っっている貴族の末裔のような古典的エリートの思春期からのごくわずかな移行期にしか残っていないようでもあります。

 こういう矛盾を矛盾に思わない?ような状況は、生きている個人としては悩みがなくなったわけで良さそうなものですが、本当に個人にとっていいことかというとそうでもない。人間は単に食べるために生きているわけではない。各種の刺激に適切に対応することが生理的に健全なように生きている。まあ、どうせ短い人生なら、思う存分、力を出し切って生きられたほうが満足だ、ってことですね。
 で、人間の生き方を問題にする場合、問題は、人間には「良い規範」が存在する、ということであり、資本主義的にはそれが実現しない、ということです。

 普遍的に良い規範が存在するというのは、人類史上、宗教家か国家イデオローグしか言えなかったことなので、もったいないので、次の題にしちゃいます。→ 続く


 

ささいな、ぎょえ
2008-03-12 21:23:25 | その他
たわむれに
体重計に乗ってしまったら、生涯最高体重を記録してしまいました!
○○キロ!
この1年半、ずうっと昼飯を削ってきたのに!
たとえば以前はパンを3個を買うところを2個にして。トンカツ定食もしょうが焼き定食も、1年半に1回づつしか食べてないのに!
 しょっく。(夜は酒を飲むので減らせない)

ここんとこ○キロやせてたから、よしよしいい調子と思ってきたのに、、、
ぶつぶつ。

丸の中に数字を入れるといやみだから入れませんが。
実は、私は世間的にはやせてまして。ただ、この2年、パソコン作業ばかりで対人神経も使わず、ぶくぶくと太りだしたもので、なんとか以前の体重に復帰しようと努力してたのですが。

しょうがない、これ以上食事制限はできないので、活動時間を多くしなければ。
と、今までは酒飲んで「疲れたから寝ちゃおうっと」というところをパソコンに向かっている今日でした。
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耐えるときに捨てるもの、あるいは抱え込むもの
2008-03-09 22:33:14 | その他
でですね。
静態的にいえば下記の通り。他人事のように押しなべていえばそう、っていうかね。

  (前記事と同じ日です。ブログって書きづらいとことがありましてですね、テーマごとに分けないとぐちゃぐちゃになるっていうか)

でも人が生きるっていうのはそうじゃない。
時の流れの中では、耐えるために選択肢を捨てた人間がいる。
一方では、耐えずに、自分への問いかけを変えた人間もいる。

 選択肢を捨てた人間は、自分が捨てたことを知っているから、最後の瞬間に真っ二つに折れることを選択することができる。
 でも問いかけを変えたら? 「耐えない」という選択はそんなに楽しいものなのか?

最後に笑うものが一番よく笑う。She laughs best who laughs last.
  昔、そういって死んでいった女性がいました。最後に笑う人間は、たくさん笑うんじゃなくてね。一番「良く」笑う。たとえ、微笑みでしかないにしても。
  私もそう思います。



耐えることと我慢すること
2008-03-09 22:30:31 | その他
石川啄木という人がいまして、
ってさすがに若い人も知ってるんでしょうね。
その人のことを一昨日の新聞で書いてまして、なんでも「売れない自分のことを書いて悲しがってる短歌が痛々しい」って。
あにいってんだよ。そんなもん我慢しろよ、って、売れない研究者が思う。
だいたい、啄木なんてほとんど好きじゃなくてね。
 ただ、好きじゃないけど気にはかかる。ちょっとは詩人で、とにかくも、それまでほとんど歌だった短歌を詩にしたのは彼だから。

  歌は、思いをメロディーに乗せるもの。
  詩は、思いを自分の人生に乗せるもの。
  前者は、自分が紡ぐ31しかない音を、伝統が運ぶ思いに托す。
   たとえば1000年前に生きた者の言葉を思い出させ、「ぼくの気持ちはその思いと同じだよ、ちょっとは違うけどね」、と伝える。
  後者は、今の自分を31音で表現する。
   自分の心の音楽は出てこないけれども、この思いを伝える。5,7,5の音で包みながら。
  それを提唱したのが誰であっても、それを実践したのは、啄木。
 
まあそんなことはどうでもよくて、いいから我慢しろよ、そんなふうに俗人だから立派な詩人になれないんだぞって。
もう死んじゃったけどね。

で、ですね。
考えてみれば詩人というのは我慢はしない。我慢する代わりに言葉に托すのだから。
では、言葉のない人間は?
それは耐えるしかない。


耐えることと我慢することは非常に似ているし重なってもいるけれど、根本的なところで異なっています。

「耐える」のは、選択肢がない場合に「耐える」と使う。
唯一残された選択肢は、「死ぬ」とか「壊れる」とかです。
 この鉄板は、1万気圧に耐える。
 耐え切れなくなったら二つに折れる。

「我慢する」は選択肢が明確にある一方で、その選択肢をあえて選ばないときに使う。
 風呂は熱いが我慢する。
 我慢できなくなったらバスタブから飛び出ればいい。

「耐える」「我慢する」の重なる部分では、
 風呂が熱いのに耐える。
これは選択肢はありますが、その選択は、はなから想定されていない場合です。
耐え切ることが想定されているわけです。

そして言葉の使い方どおりに、
「耐える」とは結局のところ、別の選択肢を想定しなくなることなのです。選択肢があればそちらへ向かう。
 日本人にも選択肢を持った時期もあったけれど、大方の平安な時期は人民はずっと耐えてきた。別の選択肢など頭の隅にもおかず。


 そして運動とは、そんな耐え続ける者たちが、別の選択肢を見出すところから始まります。




つなぎに
2008-03-02 13:02:57 | コーヒーブレイク
マイフェイボリット・ブレイク

 しばらく更新しないとアクセスが減るんでさみしいですね。
 合間があいてるときは、だいたい理論に使う事実の仕入れ時間で、それって個人的には面白いんですが、読んだ人の人生のためにはなりそうもなくて。

 で、時間稼ぎにマイフェイボリット。これは将棋の駒です。

 今は人と将棋を指すわけではないのですが、日曜日にNHKで将棋番組があり、その後半1時間を見るのが日曜の休息となってます。

 ひいきの棋士ですと谷川浩司という人がいて、この人の若い時の将棋は感動モノでした。目からウロコっていう感じの攻めで、中盤かなと思ったらそこから7手くらいで寄せきる(=4手動かしたら勝っている)んですよ。
将棋を知らない方のために、サッカーだと味方ゴールからキーパーがボールを返すとそのボールをそのままヘディングでシュート、1点!って感じです。
ありえない! って感じでしたね。
 もう中年でそんな勝ち方をするわけでもないんですけどね。やっぱ、ありえないから、そういうことをしてるといつも勝てるわけではなくなって、それじゃ生きていけませんもんね。で、こういうのは姿勢だから、全部の勝負に影響してしまう。

 対照的な人で羽生善治という人がいて、この人はとにかく勝つんですけど、見てて面白いわけじゃない。将棋って、ほんとのことをいうと盤上の駒の勢力の張り合いなんで、駒を連携させて敵の王様の方へ見えないように勢力を張ってくと、基本的には勝つんですよね。こちらはそのタイプ。
 谷川という人の将棋は、昔ながらの切った張ったで、敵の王様の周辺の駒の勢力を急激に高めて勝つ、っていうタイプ。まあ、こちらのほうが見えるしロマンがありますから。

 で、写真は「金将」です。マイフェイボリット。持ち駒の金。飛車や角を切って(=弱い駒と交換して)、金で詰めるのが好きです。あと、こちらの王様が危ないときに、バシンと打って守る(将棋用語で「叱りつける」と呼びます)ときとかね。なんていうか、その可能性にわくわくするっていうか。


 ということで、さっきNHKを見まして、渡辺明という強いにいちゃんが負けたところ。
 残念でした。この人は勝ち方を知ってるから勝つというタイプで、将来不安なんですが、いいおにいちゃんで、ブログにお人柄が出てて、見ると気持ちが安らぐんです。奥さんのブログがまたお人柄で。






人は何を糧に前に進むか
2008-02-17 22:58:37 | その他

イギリス(産業革命):「私(医師)は数日前に分娩した婦人が具合が悪いというので診察に行った。彼女の家は地下室で、部屋の床は浸み出した地下水が溜まって歩けない。床に置かれているレンガの上を跳びながら部屋の片隅でワラに横たわり赤ん坊を抱いている彼女のそばへ行った、、、」
   (貧乏な人々は採光も換気も悪い、そして暖房もない地下室で生きていた。少なくとも命のある間だけは。)

アフガニスタン(40年前):門の脇の陽だまりにもう自分では動けないほど老衰しきったという風の男が横たわっている。よく見ると同居している若い娘の亭主だった、、、
   (ここでは労働しようとしても労働をする場がないのだ。水が降らなければ、作物を育てる労働の行き場がない。ここでは土地は広さで数えるのではない。どんなに多く、灌漑用水を分け与えられる権利があるか、が金持ちの証なのだ。)

前回の古本です。
両者とも貧乏の果て。
でも、内戦前のアフガニスタンではとにかく生きていけた。

じゃあどっちがいいか、などという問題提起は勇気のない人間しかしない。
どっちも悪いのだ。

また、だからどうだと自分自身なり日本人なりに要請する気もない。

ただ、少なくとも世界を変えられるのは、
「だって、それ当たり前じゃん」と、飴をなめながらのたまう子供ではなく、
 黙りこくって縫い物を続ける人間だと思う。耳をふさぎ、縫い物を続けながら、いつのまにかバレンタインの襟巻の端に、小さな十字架を縫い込んでいく人間。

 人間は心だから。




古本屋
2008-02-15 22:39:23 | その他
日記ブログ

今日は仕事で府中市近辺に出張、直帰、で、もよりの府中本町駅へいきましたところ、古本チェーンの「いとう」がある。ま、ブック・オフのようなもんですね。
期待しないで入って予想通り出てきて、でも今日は早いから、数年ぶりに某中野島駅の中規模店「いとう」へ行こうかな、なんて、いきまして成果が7冊1150円。
すごい。
というか、情けないというか可哀想というか。俺が買わなきゃこんないい本たちが焼き場行きか、と。
たとえば、「アフガニスタンの農村から」80円、みたいなもんで、みなさん買わないでしょうけどね。すごい売れなそ。
その中で、帰ってからまず手にとった、250円も出した「産業革命と民衆」角山栄他。
読み始めて、よし、これは1000円の価値がある。
と、思って9ページ目、うううううんん、違うような。
いや別に、「働くことが賤しくないという経済倫理がイギリスで18世紀初めに確立した」って書いてあるだけですけどね。
にゃあお。
その手前で、「貴族階級は労働に手を染めないでダンスをして暮らしていたから労働なんて賤しいものだと観念していた」なんて趣旨を書いてあるのに、わずか数ページで何で変わるのか。
まあ、
  その1:ウェーバーがいったから
  その2:ぼくの友達はみんな中産階級だから、貴族にそんな偏見があるなんて知らなかった。(でも自分で書いてるぜ)
イギリスは誰の国か。
貴族の国さ。
働くことは彼らにとっては死んでも賤しいんだ。
そうじゃなくて、ブルジョワジーが「働くことは人間にとって正しいことだ」、と主張しだして、ああ、そうかい、そうだね、下等人類は働くのがよいんだよ、と貴族の配下の宗教家がお墨付きをあげた、というのがほんの数ページで誰だって予想するロジックなんですけどね。・・・かくて英国「の上層民衆に限っては」働くことは神の思し召しというお題目を唱えるようになった・・・とか展開するのがフツウ。

、、、あやや、だんだん評論ブログに変わってゆく。

日記でした。
いいたいことは、古本屋は知識の宝窟だ、ということ。
中古カメラ店みたいです。

     ところで、ここに面白いコメントがついていまして。が、どうみても
     HP勧誘商業コメントと判断されましたので、HPへ飛ばず削除しました。
     違いましたら文句をいってくださいませ。↓

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形式社会学
2008-02-11 21:35:27 | 社会学の基礎概念
 さて、ちょっと経済関係のテーマが続きました。このブログも社会学を標榜しておりますことで、社会学の基礎概念を少しとりあげましょう。
 まずは、社会学とは何か。これはブログ表題にありますね。社会科学としての社会学とは、生きている人間の自由をどう実現するかを、研究し、伝えていく行為のことです。
 それじゃ、「社会科学」と一緒になってしまう?
 そうです。社会学は社会科学の帝王です。経済学などは科学のための資料にすぎないし、政治学にいたっては科学でもない。
 昔から「社会学は社会学者の数だけある」とも言われていますが、科学としての社会学は上記しかない。。
 中には「社会学とは、(社会という)この不透明な非自然的前提の総体が、いかに存続・変化するかを問う学問なのであります」などとおっしゃる方もいらっしゃいます(別に他意はなくyahoo の1ページ目から拾ってきただけですが)。まあ、人間たちの秩序の存在理由というやつなんでしょうが、その時点で科学の資格はない。
 それは昔から床屋とか美容院で話してもらうことです。
 社会なるものが自主的に存続しようが変化しようが、われわれ生きる者の生とは関わりがない。科学という美称は、生きる人間の役に立つものにしかつかない。
 窓を真ん中から拭くか、右端から拭くか、左端から拭くかは、「窓の拭き方学」として「学問」にはなっても誰も「科学」とは呼ばない。「窓の拭き方」が科学となるのは、人間がこれから窓をきれいに拭く、そのために応用できる原理を表現したときだけです。
 科学はよく「因果連関の学」といわれます。現実がなぜそうなるのかを明らかにする、ということですね。
 でもそれだけでは科学というものの説明が不十分です。因果連関の学として強調する背後には、科学が明らかにするその答えを、生きている者が使っていく、という前提があるのです。
 社会が自主的に存続するとどう強弁しようと、それは、教師以外の生きている人間には何の役にも立たない言葉の遊びにすぎません。社会は変化する、そんなことは生きていれば分かる。それはなぜ変化するのか、そしてそれを人間が変えるための因子はなんなのか、これに答えるための基礎作業が、社会学です。
 

 ま、ここまでは前置きで、ご存知の方はご存知の話。
 今日は、行為の社会学とは似ているようで非なる「形式社会学」というものについて。
 
 行為の社会学とは、ある程度昔からの人間の行為スタンスを前提としています。
 人間はここ4千年ほどは変わっていない、という前提ですね。そしてこれから300年くらいは同じだろうという。
 この4300年をいってみれば超歴史的に述べるわけですから、一種の形式社会学という側面もありそうです。
 ただ、形式社会学というものはすでに特許をとれるほど昔からあるので、この昔からの形式社会学にはひとつ触れておかなければいけない、というところで。
 
 形式社会学は、2つの点で存在意味が薄い。

 第1に、それは評論であること。
 評論とは、第3者の「見た目表現」ということです。生き物は、とりあえず見た目で判断する必要がある。目の前の動物が牙を剥きだしていたら、とにもかくにも逃げたほうがいい。本当はあくびをしているかどうかなど、考える必要はありません。
 しかし、それでは本当はどうなのか、といわれれば、いやでも目の前の動物の身になって考える必要があります。
 
 とりあえず、見ただけの自分はこう考えます。「彼と彼女は仲がいい。じゃあ彼女に近寄っても無駄だ。」
 「あいつとあいつは仲が悪い。とばっちりを食うから二人がいるときは近寄らないでおこう。」

 そんなことは本当かどうかわからない。
 彼女は彼にウンザリして他の人間を待ってるかもしれないし、あいつらはケンカはするが同志だと思いあっていたりします。
 現実がどうであっても他人にとっては、前者は親愛関係で、後者は対立関係です。
 どうせわからない関係については、他人はいいたいほうだい、ってことですが。
 
 形式社会学の元祖、ジンメルに以下の記述があるとのことです。
「外部の社会や集団と敵対関係にある集団では、成員相互の連帯感が強まり、結合的な相互作用が促進され、集団としての凝集性が高くなりやすい。その点で、対立・抗争は社会化の一形式でありうる。」
(「わかりやすい例としては、戦争があります。国家という一つの集団が他国家と対立することにより、国家内部では国民が愛国心を高め一致団結して敵に立ち向かいます。」コピー元:村上さんという人の昔のHP。使わせていただきます)

 いわせてもらえば、何が連帯感だ。何が相互作用だ。すべては外在的要因次第だ、ということです。
 ある集団ではそうなり、別の集団ではそうならない。
 ある場合は政治集団では分裂を続け、ある場合は国家で革命が起こる。
 ある場合は遊び集団では、なんてこともなく毎日が過ぎてゆく。

 行為する人間にとって意味があるのは、そんな外観ではなくて、その外観を規定している要素です。その要素が分かったとき、人間はその知識を元に次の行為をすることができる。
 先の例に戻ります。
 現代の学生間で親愛関係のように見える関係は、何が規定因子なのか。姿かたちか、熱意か、話の面白さか。あるいは、当該関係は本当に親愛関係なのか。ただの暇つぶしか。
 会社の先輩の二人が対立していて仕事がやりにくくてしょうがない。何が二人をそうさせているのか。自分が間に入ることでどう変わるのか。
 
 その知識の(基礎の)提供以外に、一般人には学問の意義などありません。
 「親愛関係だの、対立関係などと、そういっておしまい? これが社会学?
 中学生以上なら見りゃわかんだろ。学費返せ。」
 みたいなものです。

 第2に、観察的表現の意義は、これを観察する人々の間のコミュニケーションのためにあった。そしてそれにしか役立たない、ということです。
 たとえば井戸端談義、たとえばギリシアの教師社会のお茶の時間の楽しみ。
 そう。役に立たないわけではない。学者の間だけにあっては。
 若い人たちはこれは覚えておいたほうがいいです。哲学者たちは科学もせずに、自分たちが偉い、みたいなことを言いますからね。惑わされずに、自分の研究で一歩を踏み出してください。
 
 さて、まだ続きます。
 ここでやめると、なんのための普通の人向けブログか分かりませんので。社会学的には、そうなんだ、ってことですけどね。
 
 で、まず、普通、「あいつとあいつはけんかしてる」とかいうじゃないですか。
 でも、それって昨日のことなんですよね。
 また、「あいつとあいつは話が合わない」ともいう。
 このほうが永そうですが、それでも昨日と今日のことにすぎない。
 人間はよくできていて、たまたま左翼だったり右翼だったりするけど、本当は左右の違いではなく、たまたま両人が子供の頃読んだ小説の主人公の好き嫌いのせいだったりする。小説の好き嫌いで人間を好き嫌いしたら結婚なんてできませんやね。それが「まず」の例です。
 あるいは、ある者は権力者が好きで、ある者は権力者など反吐が出るほど嫌いだったりする。それでも、一人一人の人間の付き合いに、権力者の出る余地はありません。一人一人になれば命を助け合う。これは「また」の例。
 
 じゃあ、これは社会学的にどうなのか。「疎遠関係はいかなる場合に変更されるか」。 
 やめましょうよ。そんなことは処世訓と呼びます。隠居したご老人が教えることですな。若い人たちが「科学だ」とかいって研究することではありません。
 科学がどう、という前に、人は前に出る。とりあえず生きる。まずはここです。
 生きてみて、わからん、困った、どうする?? そこが科学の出番です。
 

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白呪
2008-02-03 10:31:07 | コーヒーブレイク
マイ・フェイボリット・コーナー
知ってる人はごくわずかな、美輪明宏の世界。
、、、と思ってyahoo検索にかけましたら「白呪」で67,600件ヒット!
ちょっと待てよ、うそだろ。みたいなもんですね。

アルバムのタイトルなんですが。
私にとっては、学生時分に、東京は、うらさびれた都立大学駅前の中古レコード店「ハンター」で千円で買ったLP。ハンターは大井町(東京)にもありましたね。こんなの買うのは俺だけだろうって自信がありましたが。

今の人にはCDでもあるはずです。6年ぐらい前、行きつけの図書館に行きましたら新着CDコーナーにあって、ぎょえ、と思ってすぐ近くにいた35歳くらいの係のお姉さんに、こんなのあんですねえ、っていったら、はい、私が選びました、といってました。

で美輪明宏。
私も、人知れず歌うたいなもんで、ときどき家で歌を口ずさむのですが、これは歌えない。今日もジャケットの歌詞を見てひたすら黙り込んでしまいました、今日じゃないですが。
まあ、一番歌いやすくてヨイトマケの歌。でも1番で涙にくれる。
、、、どうしてこれが67,600件じゃ!

歌詞をみるといわゆる臭い歌詞なんで、私なんかではとうていこそばゆくて書けない。でもこれを強引に歌いこんでしまう、美輪明宏。その実力はこっちへおいて、うまいとかうまくないとかじゃなくて、強引な世界の中で歌に引き込まれる私を含めた聴衆。そうやって全知全霊で生きてきてる人間がいる。それが67,600件なんだろうな、と。
だって、子供達にはわからないだろうけど、臭かろうがどうだろうが、これがちょっと昔の現実だったのだから。

そして、私の絶望的な精神に、数日間分のエネルギーがはいる。
自分の現実をその手に握りながら生きる人間がいる。
自分の現実。
テレビで吉本喜劇を見て笑っている自分は、自分の現実を生きているわけではない。
自分の行為として自分の将来を変えようと、したこと、今すること、明日しようとしていること、それが自分の現実です。
うそだと思ったら、一週間後、その日のことを思い出してみると分かります。覚えているのは、ご飯食べて、テレビ見て、メール打って、寝た。
 
、、、誰でも、その手に残るとしたら、自分の現実しかない。ただ、それを握って生きていくのかどうか。
 
 ふんふん、高校の倫理社会の先生のようだ。
 美輪明宏は、それに耐える歌うたいです。




生産物か商品か
2008-02-03 10:00:20 | 賃金・価値・権力
モノのあり方は二通りです。生産物か商品か。
ヒトのあり方も二通り。ただの人間か、商品生産者か。

詩人の大部分は、自分が生きていて感じたことを伝えようと表現します。
小説家の大部分は、他人が買ってくれる物語を表現します。
 人はほおっておくと詩人になります。大部分のブログで、ブロガーは詩人です。
 小説家になりたい人は、たいてい売れなくて絶望します。ほんとは何がしたかったのかな?

人はほおっておいても自分が食べるもの、自分が使うものを作ったり取ったりします。
勤め人は、新入社員から社長にいたるまで、結局、他人が買ってくれる物を作ります。
 時計の要らない社会では、いまだに人は自分と家族・縁者の食べるもの、使うものを生産します。
 会社は、作るもので儲けがあがるように、物と労働者を加工するのが仕事です。


人が買いたいものはいいものですか?
 私はお金がないので、安いものが買いたい。
 では私は安いものが欲しいのか?
 そんなことはない。良いものを安く欲しいだけ。
 瀬戸物屋はなぜつぶれた? まともなご飯茶碗が欲しい。
 電気店のオーナーは広告紙を印刷業者から買いたい。それは広告紙を撒き散らして紙資源を使いたいからか?
 そんなことはない。でも、よさげな商品を消費者に見せつけないといけない。

社長以外の人間にとって、どこに偉そうに商品経済を擁護する理由があるのか、私にはわからないところです。
ましてや教育学部の教授たち。(まだいってるぜ)
 あるいは種々の転向者たち。
 商品経済を擁護したいのなら、悔しさに口をゆがめながら発言して欲しい。


もちろん、国家計画経済がよいというわけではありません。私はアナーキスト。

人の大部分は、助け合って生きていきます。
公務員の大部分は、法律という武力に守られた武器で、政権と経済秩序を守ります。
 人は、家族・縁者がどうしようもなく困ったら、なんとか便宜を図ります。
 公務員は、隣りの人間が困っていても国の権力は回せません。
 
当たり前のようで、マルクス・エンゲルス以外のマルクス主義者は考えたことのない事実。
 公務員は、政権の消費物を確保しつつ、政権の方針により、抽象的な国家のために秩序を守る知恵を絞り武力を行使します。
 たとえば100人の世界で200ある生産力の余剰を50人に分けるのが、国家に嫁いだ政権者の仕事です。 
 武力権力は、余剰をどう使うかを自分たちの賞賛と優越のために使うことができる。
 多くは「国威」という大義名分で。ほんのちょっとのおこぼれにあずかって。
 独裁とは、政権が選挙によって支えられていないことではない。50人を切り捨てる決定を、政権がすることです。資本主義では、資本家のせいにできますけどね。
 
 余剰生産力の200を100人で使えば、「貧乏人」が最高学府を目指す必要はない。おこぼれ太りした政権者に言わせればみんながプチ貧乏かもしれないが、だれもそうとは思わない。 
 社会主義の定義は、余剰を全人民が使えるかどうかにある。
 国家計画経済政権者が『全人民の「ために」使っている』などというのは、おなじみの資本家のウソです。だから国家資本主義などといわれる。でも国家計画経済は資本主義ではない。人間の意思によって経済を変えられるという体制は、資本主義ではない。ただ、意思的に資本家とおんなじことをした、ということです。
 ついでにいえば、権力者のウソはどの権力者でも一緒で、黒を白というわけですが、政権者は精神過程しか目立った儲けがないため、自分でもウソに気付いていないところがあるんで始末が悪い。きちんと教えてあげないとね。
 



怒っていいなんて
2008-01-17 22:30:17 | その他
「人生はたいがい微糖だ」(たいていかな?覚え損ないなのか、今、気になってしょうがない)
ここのところ総武線にあるコーヒーのCM。

人生なんか、微糖だよね。「人生は甘くない」んじゃなくてね。苦いはずなのにも関わらず、甘い。十分甘い。こういう解釈をする人間は、可哀想かな、、、でもほんとは幸せでしょ。

今日の問題は、微糖は甘いか?
甘い。
なぜ?
人は一瞬に死ぬから。
そして、その一瞬の死で類を永らえてきたから。
生物が死ぬのには理由が要ります。一瞬の死には一瞬の激情が必要なのです。
人は、5秒間、微かに口を満たす甘い香りに生の全てを捧げられる。
横たわった中でも老衰ならぬ死を容認するには激情が必要です。
なぜわざわざ死ぬかは別として、一瞬に死ぬ人間は死ぬ理由を持つ。
微糖?
甘い。甘すぎる。戦いのような人生の中では、人は砂糖の白さだけで甘美を感ずる。
その夢に近い甘美の中で、人は死ぬことができます。
この一瞬を人類である個別者は看過することができません。
理由を問わず、この一瞬を生きていくことが生物学的な人類の定めになってしまうわけです。
この一瞬の怒り、これを大事にしなくてもいいけど、ただそれは老衰による棺桶への一歩。
もちろん別に老衰で死んでもよろしいんだけれども、働けるときには働くのと一緒に、生きられるのならそれなりに生きるのがみんなのためです。

てゆうかあ、
そんなことよりも、このように人間は昨日を引きずっていつまでも引きずり続けていなければ一生を意味があるようにはできない、っていうことで。

まだ、ずるずると引きずりそう。
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怒り
2008-01-14 20:17:16 | その他
 (前の記事と同日。同日に2つだとどういう表示になるのかな。 とにかく前の続き)

 さっきまで「職人オリンピック金メダル16人」という番組を見てまして、20歳前後のお兄さんが世界一の技能を披露してくれる、たとえば「0.001ミリの金属を削る」みたいな。
 それでさ、問題です。
 この世界一、16人の稀有の才能と努力の人たちは、東京学芸大学教授山田某氏の給料の1/2でも、給料を勝ち取れるでしょうか?
 とれっこないぜ。
 相手はたかだかいくらでもお代わりのきく東京学芸大学教授さまですが、あなたがたの「生産性」は、教授さまの1/2以下ですぜ。
 、、、ざけんなよ。なんの理論だ。 ばかやろう!
 以上、「怒り」でした。

 怒るとみんな逃げてくんだよね。寒いからね。でもいいよ。怒りを口にするほうが ぼくには、そして世界にも、大切だからね。

  (ps.じゃあ高い給料を取れりゃいいのかって、それはそれで別の問題ですけどね。)




正義とは
2008-01-14 16:10:38 | 上部構造論
 昨日は、休みが続くので難しそうな本でも読めそうだと図書館の社会学コーナーへ。(いつもは気晴らしの本しか探さないのですが)
 ふとみると「希望格差社会」なんて本がある。「希望」という言葉に反応してぺラッと見てつまんなそうだったけど、隣の同じ著者の本へ。こちらにも中に「希望」という文字があり、さらに、「以前は機能していた学校制度のパイプラインから漏れが生じたのがフリーターだ」なんて趣旨が書いてある。
 『そんなことがあるもんか、そんなものを「漏れ」と呼ぶなら昔から漏れっぱなしさ。なんだね、昔は単純労働者はいなかったのかね、小零細企業は終身雇用だったのかね。この人はいったいどんな学校制度が好きだというんだい、帝大と高等小学校の2通りかね』 と思いながら週刊誌を借りる感じで借りてきました。

 彼によると、努力が報われる想定がつくということが希望があることなのだそうで。その反対語は努力が報われない、ということになります。端的に言えば、一生懸命働けば、高収入が得られるというのが希望のある形態なのだと。
 そうじゃないでしょ。
 そんなもん、一般論にするなよ。
 (だいたい、このおじさんによればある人の給料が高いのは「生産性が高い」仕事だからなんですって。東京学芸大学教授の仕事は、東京学芸大学非常勤講師より生産性が高いのですぞ。なんだね、センセは何を生産してるつもりなのだ。米1石でも作ったのかい? 社会学史でよりよく教えられるから、週にかけもち10コマ教えている非常勤講師の4倍も給料をもらえるのかな?
 要するに、「生産性が高い」というのは「そいつにカネを出すやつがいる」の翻訳語なんですけどね。似てるからっていうだけでくっつけちゃ、「理論」の名が泣くわね。)
 まずは、一般論でいうと、報われるのは努力じゃなくていい、人は行為の将来が手に入れば報われる。「行為も努力でしょ」と呼ぶならそれでもいいが、そこで言ってる努力は、何ヶ月も何年もかけてする行為じゃないからね。一般論では、「恥ずかしいのを我慢してデートを申し込んでオッケーが取れれば」報われるのですよ。明日のデートを申し込めば、相手は受けて「くれるかもしれない」、それが希望でしょ。
 なに、努力が報われるって。なに、一生懸命働けば「高収入」が得られるって。
 俺らそんな風に生きていない。
 給料を高くする努力と、希望とどういう関係があるんだ。給料が安いのは、飯以外に食えないし、携帯以外に遊べないから絶望なだけでしょ。なに、給料を高くする努力って。努力は毎日してるじゃないか。毎日の仕事そのものが努力なんだぞ。違うか。それ以上何をしろというんだ。今と同じに毎日一生懸命働くから普通に食わせろっていってるだけでしょ。 
 いったい「高収入があたしの希望」なんてやつは、勝手にしろというもんだ。普通の収入をくれ。それに「希望」だなんて尾ひれをつけんじゃないよ。希望は希望さ。いつか人並みに暮らしたい。家族なんてあるのもいいじゃん。ゴルフって面白いのかな。それと「一生懸命努力すれば、高収入が得られる」と結びつけんな。

 でですね。不愉快なのが、この努力の経済語換算テーゼ。苅谷剛彦については前に著書でいいました。なんでいちいち人間の行為をカネに換算するわけ? そんなんだから希望がなくなるっていうのがわかんないのかな。
 生産性がどうのって、いってることは「単純労働者にはカネを払わないよ」っていうことだけなの。
 なら、そのとき、ある人間、ある若年労働者は「単純労働に仕方がなくついている人間」ってだけじゃん。
 なのにこの先生に言わせると、彼は「生産性が低い人間」なのだ。
 あんだよ、それって人格の否定じゃん。わけわかんないよね。あなた、弱いもんの味方のつもりでしょ。
 「労働者の生産性が低い」んじゃない。「単純労働で代替の簡単な職種についている」だけなのだ。それは社会の問題なのだ。代替を困難にするのが国家権力の役目なのだが、誰もそれを指摘しないばかりか、「派遣業法」だ。
 お前も私も同じことを言っている? じゃあ、同じように言い換えればいい。でも言い換えやしない。そこが評論家というものです。
 
 というわけで、評論事業とは何か。
 端的に言うと、世の中の正義にのっとって、自分の言いたい言説を広めることです。
 「正義」というのは、発言者の中で「この内容は、権力に保障されているぞ」という確信のことです。
 国家の法であれ、神であれ、社会が承認しているはずの道徳であれ、この内容が権力に承認されていなければならない。発言者としては、その権力や強制力の存在を認知しているということです。
 まあ、人間の場合、こういうのは「認知」というより「感知」に近そうですね。
 言説は何でもよいのです。しかし、それを乗せるワクというものがある。ま、土俵ですね。同じ土俵であれば考慮してやるよ、というワクのうち、権力から提供されたものが「正義」です。

 権力の源泉は、自分たちの制約主体ということですね。これにはいくつかあります。
 
 まず国家的中央武力権力。「的」というのは国家とつるんでる経済権力も含む、ということで。
(隈の体系では、いわゆる国家権力が武力を条件としていることを際立たせるために「武力権力」と呼ぶことが多いです)
 これは政府権力を引き回す代議士やその取り巻き、あるいは経済組織高官や評論家、さらに経済権力を引き回す経済組織の配下たちとさらにその取り巻きの大企業予備軍、みたいなところですね。

 ついで、共同体内的権力。
 発達した資本主義では地縁的な共同体はありませんが、社会組織の内部にはたくさんの共同性がある。食品製造会社で、「これ店頭に並ぶ頃には消費期限切れ、、、あ、ラベル変えちゃうんですか、だめですよ」なんていえない。原子力研究所で、「この新発電所の建築設計図のいいかげんさはなんですか。これじゃいつかパイプ崩れちゃいますよ」とはいえない。それは昔、厚生省で、「3年で電算化なんて無理ですよ、どんだけデータがあると思ってんですか。閣議決定だ、って、、、そんな無茶な。大体でよけりゃやれますが」といったのと同じです。別に社会保険庁の肩を持つ気はありませんけどね。まあ日頃の行いが悪いと誰も助けてくれませんな。
 
 次に、昔でいう宗教組織というのがありますね。
 これは2つにわかれて、第1に、権力上の知の操作。
 つまり、権力の維持には知識を操作しなければならず、この操作人が少なければ少ないほど、この権力は強くなるわけで。
 たとえば帝国大学が日本で1つの時は、卒業生は「末は博士か大臣か」でした。まあ、そうなると帝国大学以外にも知識の源泉は必要で、知的操作に関わる人間、その他の学士や学生崩れや文筆業は、権力者モドキと認定されます。
 第2に、これら3つの権力の伝達。
 知は、権力の伝達に伴う賞賛≒「教養」として、大衆がこれを知り活用することに、賞賛を内在させます。
 
 最後に、宗教的認知そのもの。
 まあ、信仰というか倫理的確信というか。私のような裸一貫ではこれ以外にありませんな。私の観念が正義であることには何の根拠もない。どんな権力者もお前が正しいとはいわないし、ウチの社長もいうわけがない。根拠ゼロ。でも「これが正義だ、正義は勝つ」といえるのは、理論上、神がいるんだ、ってことになります。だからって、別に信仰であることに何の後ろめたさはありませんね。ひがみぐらいはあるかな。
 
 ともかくも、評論家というのは、これらのどれかに乗る必要がある。そうでなければ、論は売れない。売れない論を説くのは評論家ではない。格差の是正を主張するときに、二昔前までの評論家は必ず「労働組合の組織化」も挙げたものです。「単純労働でも労働者の代替が容易でなければ労働条件は低くしにくい」ことは教授ともなればだれでも知っている。ちょっとぐらい言ったら? 今日の現実には空語に近くても、やってる人は力づくんですよね。
 でも無理でしょうね。それは 『同じ生産性なのに、あら不思議、給料が上がる』 ってことだから。センセの論理が成り立たない。
 って、あーあ、私の正義は勝つかなあ、、、
 

(注)山田昌弘「新平等社会」文芸春秋、2006.
 それにしても山田の背景議論はひどい。「では、なぜ生活水準の格差が生じるか。ここでは、家族や国家、そして、資本所有などの影響を除いて、純粋に自由な経済活動の格差によって、生活水準の格差が生まれるメカニズムを示そう」(→イチローの所得が高いのは、イチローが多くの人を喜ばせるからだ)
 って、資本所有の影響を除いて何がいえるんだね? イチローの所得が高いのを明らかにしてどうするんだね?
 まあ、社会学者だから正直にちゃんと前提を書いているところが良いけれど。社会学者の8割は人がいい。それはいいが、読んだ若い人たちは、そんな前提など目に入らない。「ああ、大銀行のサラリーマンの給料がいいのは生産性が高いからなのね。あたしは信用組合の派遣社員だから生産性が低いのよね。しょうがないわ。」
 そうなんですか? 山田先生?
 まったく。マルクス系経済学者は、ジニ係数などを使う現代社会に少しでも知見がある人なら一目でバグが割れてしまう危うい議論(橘木(マル経ではないね)))などしていないで、基本的なところで議論の最低限を作って欲しいものだ。



コーヒーブレイク・その3
2008-01-09 22:46:17 | コーヒーブレイク
マイ・フェイボリット・シングその3


ぼくの中に
ぼくの中にどこまでも突き出た堤防
朝焼けの大淀川
…………(中略)

そのすべてを 今静かに消そう
…………(後略)

        嵯峨信之

詩どす。
全部載せられたらいいんですけどねえ、、、
覚えとらんとですよ。覚えてないけどその文言が持つイメージだけが残っている。

そんなフェイボリットシング。

近しすぎる知人は、なんだ、おまえが詩といえば中原中也だろう、って。
はあ、そおなんですけどお。
中原中也は"趣味"じゃないす。私の1/3。今私がこうしているのは彼のせい。
私が愛唱した昔って、評論家が「なかはらなかや」って読んだ時代どすえい。
今じゃ大書店の詩コーナーの平積みの1/4は、なかはらちゅうや。今日見てきたからね。
  自由が蔓延してきたんだねえ、リベルテールの中也、、、おっと、ほんとに自由が蔓延してたら憧れもなく売れないか。

ま、今日の主題はそうじゃなくて、
詩でこのコーナーを埋めようかな、と思ったときに浮かんだのは、「汚れちまった悲しみに」じゃなくて「大淀川」でした。
その間には詩人なんていくらでもあるはずなんですけどねえ。
歌うたいでは田村隆一。個人的な趣味の小野十三郎。私の愛唱歌の吉本隆明。
でも、そんな人たちは思い返して出た名前。
私の中で瞬間に出るべき詩は、中也でなければ「大淀川」
というわけでフェイボリットソング。
嵯峨という詩人は、私のように自信満々で、なんもかわいげのない詩しか作らんので、詩集は買ってないのです。そんな詩は、私の、必ずしも運命が微笑んでいない青春の慰めになりませんで。だいたい、昔見たときは、この詩は彼の詩集に載っとらんかったとです。
他に好きな彼の詩はない。
とにかくそういうわけで、今、ここに転記しようとしたらぜんぜん入手できない。
ので、覚えているところだけをアップしたという次第。
覚えてないのに第1推薦というのも不思議なものですね。
どなたさまか、知ってる人は空欄を教えてくださいませ。

 ********************
  ここのトラックバックは本物です。
  へえ、トラックバックとはこういうものか、という感じで。
    なにしろ初心者でして。あと2,3個いただけたらイメージがつかめそうな、、、

その2:と、書きまして、その後、次のトラックバックも本物です。
    いいなあ、詩関係者は。

    おかげさまで、なんとなくトラックバックというものが分かってきました。
    おかげさまついでに、2個、飼っていた商業コメントを消します。
      だけど、なんで『虚偽意識』にばっかりエロコメントがつくんだろうなあ。
      すげえつまんない評論なのに。




ダイヤモンドの価値はそれに投下した労働力か
2008-01-03 21:54:48 | 賃金・価値・権力
 明けましておめでとうございます。

   シンプルですがなかなかよい挨拶言葉ですね。
 
 今年はお正月出勤あるかと思いましたら、なんなくなく、家族が忙しいので今日もネットサーフィン。どうもふやけてしまいます。
 で、これは、ほんとは、おとそブレイク。
 ブレイクにくだんないことやんなよ、と? ま、おっしゃる通り。
 でもなんか景気づけにネットを巡ってくと、どうもこの問いに対応できる人間も少なくなってきたようで。
 
 ダイヤモンドの価値はそれに投下した労働力か?
 ちゃいまっせ。そんなもの偶然大きいだけで1ケで何億もしますがね。ダイヤモンド掘りに失敗する人間の労働力分合わせてももうちょこっと高いでんがな。
 ま、そこまではいいですね。でも、にもかかわらず、資本主義社会の商品の価値、つまり価格の基準は、商品を作った人の労働に見合うのです。
 ということなんですが、ねえ。分かってない。
 近代経済学の人が分からないのはいいんだけど、「マルクス? 知ってますよ。だって私マルクス経済学者」みたいなのが分かっていない。
 観客の一般の方々はさておき、くちばしの青いお子さん方や宇野弘蔵の孫弟子の人たちに教えてあげますが、(その他の左翼の方々には言っても馬の耳なのでいいませんが)商品の価値は、それを作った者が買い取らざるをえないから量れるのですぞ。これを宇野の労働価値説というのです。
 宇野の不肖の子孫の方々さん。それ以外は、たとえば子供の論議の「じゅようときょうきゅう」の価格理論など、現実社会では存在しないし、その他の価格理論の派生形態も、商品の価値を量ることなどできないのです。そう先生がおっしゃったでしょ。お弟子のお孫さんたちは宇野を離れて他に何を知りたいのかね。資本家の真似をして、余り金のお手玉(金融理論)に参加したいのかね。
 ダイヤモンドが投下した労働時間に見合わない分だけ高いのは、これを買う人間が労働者ではないこと、あまつさえ資本主義国家人にも限らないことによるだけです。
 生活必需品は、これを労働者は買い取らないと死んでしまう。従って、それがいくらという単位だろうが(パン1枚10円だろうが100万円だろうが)、同じ単位の値段の賃金を得ざるをえない。資本家も払わざるを得ない、というか商品の値段をそれに合わせざるを得ない。しかし、労働者は、それ以外に資本家の取り分と生産機械の取り分を作り出している。これは労働者には返って来ない。よかろうが悪かろうが、資本主義社会はそうやって動いていく。かくして労働賃金は彼らの生活必需品分と等価となり、商品総価値は資本家分を含めた生活必需品額と生産機械額と等価となる。これが資本主義経済学における価値の基礎だ。資本主義経済ではそのように「価値」が特殊に規定されているからこそ、資本主義の法則性が生ずるのだ。(詳しくは隈の本へ。「自由と靴」なんかがいいかな)
 従って絵画には価値なんかない。あるいは幽霊のような価値がある。
 従って家庭労働に価値などない。あるいは、カネなどとは交換できないかけがえのない「人間にとっての価値」がある。ああ、、、もう基本。
 それよか、宇野の孫弟子さん。たとえばマレーシアと日本の価値の差の量り方を教えてくれよ。現状分析がしごとなんでしょ。マレーシア労働者が入手さるべきロックミシンが日本に輸出された場合、それによりマレーシア人が入手した日本円は、理論上、マレーシアでの必需品の生産労働時間と日本での必需品の生産労働時間を反映すべきだが、この間の夾雑物は何か。
 結局、世界経済はどこかへ収斂し商品の価値も世界的に外見的にも収斂していく。(賃金で入手した決まったカネで買える物が世界的に同じになっていくってことです)、その地点の探り方、っていうかね。何が問題かっていうと、同じになっていくはずなのに同じにならない要因度が知りたい、っていうか。資本主義が包摂していない、遊牧民の入手金で買えるものは工場労働者の賃金よりはるかに少ない。それを均一に近づけるものはどういう権力構成か、っていうことなのだけれど。こりゃずぶずぶと話が難しくなっていく。この辺でやめておきましょう。
 
 お正月からこんなこと書いてるのも因果だねえ。
 まあ、アルミサッシとあったかい日差し、身近な人たちが比較的健康である限り、幸せですよね。
 皆様、本年もお体を大切に。





右や左の擬似思想
2007-12-31 18:37:33 | 上部構造論
 というわけで、こういう主義を長年やっていますと、左翼だのウヨクだのという話がちゃんちゃらおかしくなります。
 なあにが左翼だあね。たまたまの、「今だけ左翼」のくせに。
 あるいは、「ウヨク」とかって、要するに昔の新サヨクじゃんか。
 ま、長年生きると、若い人が思う以上に世間のことがわかるものです。

 だいたい、被支配者というのは、権力者が嫌いです。偉そうに行為を束縛されて楽しい人間はいやしない。
 反面、反権力が好きなはずで、そこで昔ならサヨクなわけですが、このおめでたい現代日本では、まず、お年寄りが脱落する。40過ぎれば大部分の人間はそこそこの権力者ですわな。おまけに、どっちに転んでも大部分の人間は食っていける。
 といって権力のない若者が喜び得る反権力の対象とは、自己の生理性に関わらないことを条件に、自己の自由を束縛しようとする試みですね。これは、つまり、空語な道徳のお題目だ。今、空語でも道徳を持っているのは、大昔サヨクの石原慎太郎(知らないだろうね)とか、同じくそのままサヨクの高齢者だけだからね。どんな勝手なことを言うのも、反権力さ。
 普通選挙制下の権力者というのは、基本的に大衆を取り込もうとするわけですが、どうすればよいかというと、反体制思想の価値を剥奪していけばいい。生理的な課題(貧乏で食えない)とかいうのは、どちらにせよ、騙し切ったほうが勝ちなので、それ以外のところで政府に歯向かわれると困る。それには、「反体制の思想なんか君たちの将来にはなんの関係もないよ、ウルサイだけじゃん」といっておけば足りる。実際、現状そうだし。なんの思想構築の努力もいらない。
 
 では「君たちに関係のある将来」がウヨク側にあるかといえばちゃんとある。
 人が他人の行為に思うのは、その他人の行為がもたらすはずの将来のことです。
 これがうまく成立すれば、自分の利害に関係がない限りにおいて、「あいつはうまくやったな」、「あいつはよくやったな」ということになります。
 うらやましい、とか自分もああだったらいい、とかいうことですね。

 つまり、人は自分の生理的な次の将来に関知しない他人の行為に関しては、別に彼の価値観にそぐうかそぐわないかに関わらず、想定される将来を体現するその人間の行為を、妥当なものとして追認します。
 ところで、そういう他人て、政治家の場合は、自分もなりうる同一の階梯上の行為者であれば、権力者でよいのですね。
 「同一の階梯(ハシゴのこと)」と呼んだのは、地位の差はあっても自分も夢の中ではそうなりうる、という社会的状況の中の人間のことです。
 たとえば、ヒトラーに生理的に関わらない「ゲルマン人」右翼Aは、どうせ彼の今晩のパンに関わらないヒトラーについては、ヒトラーが独裁者であればあるだけ、彼の右翼的心情を体現しうる他人として、ヒトラーを支持するでしょう。
 同様に、ヒトラーがどうだろうと生理的に生きていられる「ゲルマン人」左翼Bは、彼の組織上の人事にさえ手を出さない限り、自分がそうできたらいいなあと思う「彼が理解しうる右翼ヒトラー」の「思い通り」の施策をするヒトラーに好意を持ちます。

 簡単に言うと、
・やるだろうと思うことは本当にやる
  という好ましさ。
・やって欲しくないだろうがやる(あきらめてるさ)
  という「敵ながらあっぱれ」
  
 というわけで、ま、食うのに関係なければそんなもんですよ。支配権力に対抗する権力がない、ということはありますが、それは今日の趣旨ではないので。 
 若者ウヨクというのもこんなもんです。
 
 もひとつ言っておくと、逆に、同一の将来を作りうべき者の逡巡なり妥協は、裏切りでしかありません。昔はこれを「近親憎悪」といいました。ちょっと流行ったんですが、あんまり本質をつかんでないので好ましくないコトバです。
 簡単にいうと、
・やるんだろ、てめえ。なんだ? やらないだ? ふざけんな!
 ってことですね。
 
 てなわけで、ウヨクとか左翼とかということに対応しているヒマがあったら、まともな将来の青写真を提出し、妥協なく行動したらいいんです。曲りなりには青写真を持つ共産党が「自分だけが正しい」という立場を外したら怖いですよ、、、こわかねえか。そんときはつぶれるかね。すごくピントがずれてるなりに、(理論はダメでも)政策では正しいこともいうんだから、もっと正直になったらいいのにね。でも対抗権力にはなれそうもないけど。
 
 などなど。本年も終わり。
 例年、同じ会社の製品でゴマメを作るんですが、今年はカラ炒りしたらゴマメからクサヤの匂いが。
 ずっと炒ってもフニャフニャやわらかく、、、なんだ、腐ってんじゃん!
 いいかげんにせいよ、土佐食品。なさけねえなあ、今年はやっぱり「偽」でした。
 来年は「義」だといいなあ、、、正義は勝つ。以上、おじさんでした。
 来年もよろしくお願いいたします。
 

(注)階梯が支配者層とは異なる被支配者の場合、具体的には「奴隷」のような場合、支配者がどうだろうが彼には何の関係もない。独裁者が大衆社会で生まれるというテーゼはこの同じ点に根拠がある。独裁者は、大衆社会、ないし奴隷制的民主主義社会で生まれるのだ。ただの弱肉強食の世界では、偉そうにしてもすぐに食われてしまうからね。
 では奴隷は? 奴隷にとって、頼れるのは神だけだ。 第三者が、宗教をアヘンだとかいってけなすのはよしたほうがいい。




アナーキズムと思想
2007-12-24 10:34:44 | 上部構造論
 今日は昨日の続きです。
 テーマは、「道徳には諸権力以外の伝達根拠はない。では、なんの権力もなしに良い人間と悪い人間を言い分ける根拠は何か。」

 私の立場はアナーキズムです。
 アナーキズムは「無政府主義」と訳しますが、もとはといえば「無支配者主義」ということ(だそう)です。
 誰であれ、私を、そして私と同等なあなたを支配することを許さない。という主義です。
 人は個人として自由でなければならない。
 個人は、個人として自分で将来を決めて、しかも、どんな個人でも生きていかなければならない。
 この「しかも」があるかどうかが本物の絶対自由主義者か、ただの資本家の宣伝マンの自由主義者かの違いです。
 資本家の下僕達は自分だけが生きていけばいい。それもいいでしょう。ただ、そういう諸君は革命で殺されても文句をいわないことです。そういうのを「お互いさま」といいます。人が生きる原理はとてもシンプルなことなのです。

 さて、思想とは他者の行為変更の努力のことです。国家の思想、宗教の思想とは、国家や神の名のもとに、他者へ行為を強制することを意味します。他者とは個人のことですから、国家体制下の思想はアナーキズムの世界には存在しえません。
 ではアナーキズムでは、何をしてもいいか。

 この「いいか」、という問いが存在すること自体おかしい。
 すべては、自分の心以外にとっては許されている。自分がいいというならいい。
 しかし、自分に悪い行為は自分には許されていない。
 アナーキストの他者への思想は、何も難しいことではない。「私はこうするのがいいと思うからこうしたら」です。
 友達の間では当たり前ですね。
 この当たり前さがアナーキズムです。
 国家が存在するのではなく、友達が存在する。
 私は私の倫理の名において、良いと思うものには良いという。自分が良いと思うのにはとりあえず根拠があるから、友達にも奨める。
 「そんなんで社会が持つか?」
 社会は思想で持っているわけではない、ということを知っていただかなくてはならない。
 思想の前に、友達が存在しうる社会でなければならない、ということです。

 「そんなんで真理が伝わるのか?」
 行為には真理なんかない。であれば、他者へ伝える思想の存在形態なんて、推奨という以外あるわけはないのです。

 個人は絶対です。どんなやくざだって人殺しだって、彼らは彼なりに生きている。ぬくぬく生きている人間が偉そうに説教をいえる理論的根拠などない。彼らには、社会的に罰する権力という根拠があるのみです。
 絶対自由の個人の相互世界には、かえって絶対性はありません。
 個人が絶対であれば、思想は真理ではなく推奨にしか過ぎない。
 問題はそれを可能にする社会です。だから、アナーキズムは社会運動なのです。


(注)真理の根拠などない、といったが、神様が好きな人でもそれは同じことだ。どんな教義も、たかだか人間による翻訳だから。
 (もっとも、とりあえず世間の人が伝える神様は、みんな私の倫理観とは相容れない。それは私の倫理観に劣るということになるが、人間より劣る神など神ではない。まあ、それは伝える人間のせいだということにしておこう。)
 宗教を信じるのも選択だから、神がいる、といってもいいのだが、それは自分が真理だ、ということと同じだ。そこでだ、神ならぬ人間に、「私の中の神がほんものだといえるか」、いいやいえない。したがって、神がいる場合でも、それが人間が伝える不十分な神ではなく崇高な神がいるということであれば、やはり他人には行為を真理だとはいえない。教義の歴史上さんざん誤りを重ねてきたカソリックの神父たちは、当然納得してくれると思うが。歴史を持たない自分だけのプロテスタントの牧師には、唯我独尊でいいっぱなしの責任不在だから通じないのだろう。人間、自分だけが正しいと思ってはいけない。




人間性という道徳
2007-12-23 15:38:26 | 上部構造論
 先週、新聞の投書欄に、「人間性喪失こそ戦争の本質である (から、してはいけない)」という話が載っていました。
 話はよくある筋ですけどね。投書者が (政治学研究者 84歳 石田雄)
 なんだ、石田サン、困っちゃうなあ、みたいなもんで。

 別に知り合いじゃないんですが、昔、私が60年安保運動の勉強をしていたときに、他の専門書が、やれ革命だの民主だの対アメリカ独立 (!。日本がアメリカから独立するということ)の運動だのといっていたところ、唯一、「安保闘争は戦後間もない日本民衆の厭戦の気持ちが集結したもの (左はそれをうまく組織化して、政府はそれを逆に刺激した)」という趣旨で論を展開した人 (東大社会科学研究所助教授)です。
 そうだろ、そのはずだよなあ、なんで他の人はいわんのか、と思うのですが、未だに歴史記述のただの背景説明にしかしませんようで。これは運動理論としてちゃんと考えるべきだと思うのですが。

 ま、それはそれ。そんな普通の政治学者ですが、政治学研究者の名を名乗りながらこれはひどい。まあ、政治学は社会科学ではありませんが。
 何がひどいかと申しますと、「人間性」なるものが「理想の境地」として扱われている点です。
 そら、ああた、宗教ですぜ。
 人間はひどい生活をしたらひどくなるのです。良い生活を知ればそこそこ良くなる。それが人間性です。だから、社会をまともにする。そのための社会科学でしょうが。
 戦争さえなきゃ人間はそこそこ良くなるのかいな?
 それにしちゃあ平和な今もやくざはいるわ、人殺しはいるわ。通勤電車じゃケンカだらけ。中小企業じゃ社員が歯向かえば脅しをかけてくる。
 人間なんてそんなもんですぜ。 
 「良いか悪いかは人間性ではなく、社会状況なんだ」と見て初めて、「人間性の良い部分」を発揮ができるということ、年取っても政治学研究者を名乗るのならこう認識してもらいたい。

 で、ですね。これは前フリ。
 なんでいっぱしの社会科学的研究者がこんなことをいうか、というほうが問題なのです。
 なんで『人間性』は『良い人間性』しか示さないのか。
 
 思想史の世界では、「もともと西洋では『神性』っていう『良い性』があって、宗教勢力に対抗しようとする一派が神に対抗するために『人間性』を打ち出したので、もともと人間性は良いものでないと困るのだ」っていう趣旨で説かれるところでしょうかね。
 でも日本は関係ないもんね。
 
 さて、ところが、日本でも昔から、オニ、人でなし、人非人、という言葉がある。収税吏や借金取りや、その他、武力・権力をかさにきて、弱い者に不利益をもたらす人々のことですね。ということは「まともな人」という観念があったということです。
 これはなんだ?
 結論からいってしまえば、「人間性」というのは「同一の共同性の中の人間である」ということです。
 武力権力を持たない層にとっての行為の押し付けなり押し付けへの対抗なりは、同じ人間なのだからという共通性によるしかない。
 収税吏さんよ、自分の家族や親類縁者、この村のみんなは、お前みたいなひどいことはしないぞ。そんなことをしたら村八分だ。それでもするのか。あ、するのね。お前は村の成員じゃねえしなあ、、、
 
 同じように、武力権力が表面上ない、たとえば倫理学などという道徳体系の根拠は、やはり行為規範の共通性のみにならざるを得ない。人間としてやるべきか、やってはいけないことか。こうして、倫理学の最後の砦が「人間性」となるわけです。
 道徳というものは、昔は共同体的強制が作っていた。みんなで決めた田植えの時期は守らなければならない。それと同様に、収穫の悪い年には助け合わなければならない。
 その次は、武力権力者が作った。商売でだましてはいけない。ましてや金持ちのものを盗んだら死刑だ。
 その頃の、武力が及ばない社会的局面では、武力によって強制権を裏打ちされた宗教権力がこれを補填した。仕事に励め。経営者が見ていないからといってさぼっていてはいけない。神様が見ている。
 そして、宗教のない国では、「人間性」が道徳の基準になる。「だって他に善悪の基準となるものはないもの」(?)
 
 というわけで、お爺さんは何の根拠もないコトバの断片を宗教的に振り回さざるをえない、というわけです。
 まったく困ったものだ。社会科学的者がそんな虚言を学的研究者の名のもとに発言することは許されてはいない。彼は、宗教や国家にとらわれない真理の追究者でなければならない。すなわち、社会科学者とは、アナキストのことだ。
 
 この辺で、ちょっと変だ、と思っていただくと、話が先に進みます。
 「お前はさっきから人間は状況によって『良くなる』とかいってるじゃないか。
 なんだ、その『良い』とは。お前だって道徳家や宗教家じゃないか」
 
 でしょ。
 そうです。「良い人間」と人に告げる根拠は何か。
 
 これはブログ表題の関係で明日。




文化と人間
2007-12-15 11:18:13 | 上部構造論
 先々週のことでブログっぽくないですが、書くのに時間がかかって。で、横浜市が野毛山動物園の名称を5千万で売りたい、という話。まったく小役人の点数稼ぎそのもの。
 野毛山動物園は横浜の上野動物園のようなところです。ひい爺さん婆さんの時代から神奈川県や東京城南地域の子供や若者に親しまれてきた、入場無料の動物園です。「今日は野毛山にいったの」「そうかい、野毛山は爺ちゃんも若い頃いったよ。こんどは爺ちゃんが連れてってやるぞ」。その名前が1企業に売られる。
 名前は文化です。横浜市の一般会計予算は1,3000億。5千万の2万6千倍です。そんなはした金で文化を売り渡していいのか。
 歳出削減策など山のようにあるのに。(議員も市長も削減すると困るものばかりなだけ)
 
 というわけで、文化とカネの話。
 
 隈の理論には文化がでてきません。「文化」が指す事象は、規制や価値意識や情報メディア以外は趣味の問題で、社会を変えようとする行為には関わらないから。せいぜい「貧窮」の説明くらいなだけ。
 でも、だからといって大事でないわけではない。人間が生きていくにはコーヒーブレイクも必要です。
 
 いわゆる「文化」とは、状況の共有のことです。
 人間が生きて行為する際に認識する外界の情報のうちで、他の関係する人間と共有していることに意味を持つもの。
 人間の創作物も風景も、これを共有し共に行為する将来の材料として、意味を持ちます。
 農村の文化とは、ある地域で、たとえば食事をする際の行動様式と、これを実現するために共通して使用する道具を指します。
 ふるさとの森は子供のとき生きたすべての人間との関わり合いのサインとして意義を持っています。これを『風景としての文化』と評されれば、「ああそうだな」と思うわけです。
 東京駅の赤レンガは、九州から出たことのない人間にとっても、雑誌で読み、自分と将来を同じくする「日本人」の歴史の共有物として、「そう感ずる者には」文化となります。
 しかし、共通性をもたない、表通りに昨日建ったコンクリートのビルは、評論家達が共有する状況外の人間には文化などではありません。(『建築の流れを評する生活』を共有する評論家達にとっては、『革新的な文化の変容があった』ことになるかもしれません)

 一方、金には『共有』という特性がありません。
 カネはカネを通じた将来の個人的の達成手段でしかないのです。今日もらったバイト代は、若者個人にとって、夕飯の牛丼大盛りという将来をもたらしてくれる以外のものではありません。(ただし、牛丼ではなく、彼女にあげるクリスマスプレゼントの一部にもできる、という個人にとっての選択的な楽しさがあります) 
 人はカネを欲しがる。作られた行為の将来が手に入るから。でも、その行為の将来自体には共有がない。カネが設定するものは、実は、文化が設定した個人の脳裏に住み込ませるただの幻想にすぎません。若者は別に炊飯器で米を買って、卵をかけて食べてもよい。しかし、それではみじめだ。でもみじめと思わない文化はある。カネと文化、どっちが人間にとって重要か。文化です。
 カネが設定できるものは、商品という幻想。人は手の中に残った金貨と失った人間関係を秤にかける。
 そして嘆く。

 これが人間の類的本質というやつです。
 隈の理論では、行為の原理は生物の原理ですが、行為の原則はかなり類的本質に近い。この文化という状況の共有は、それ以上に、人間が作り出していくという、ヒト固有の本質です。

 なお、類的といっても、じゃあ人類みな兄弟、国家のために命を差し出せ、ということではありません。
 「行為は存在するが社会は存在しない」、という基本を忘れると、常に人は支配者、すなわち相互行為の強制者のいうがままになってしまいます。そうではない。社会など存在しないのです。もちろん国家など支配者が作った幻想です。幻想であるくせに歯向かうと痛い目に会いますが。
 一方、行為は存在する。昨日も今日も存在し、次の一瞬も存在する。こうして人は行為の束になります。
 ところで、現在の世界では、人の行為はヒトとヒトとの行為、相互行為の束です。ヒトはまず親の存在をなくせない。ついで、どちらかといえば異性が傍にいたほうがいいように身体が構成されている。
 ヒトは、他人と生きてきた知識で、次の瞬間も他人と生きるように将来をセットする。だから、文化の共有がなくなったときに、人は自分の喪失、つまり、次に何かをしようとする自分を見失う。
 そこを間違ってはいけません。
 
 ここからは思考実験です。
 人は一人でも生きていけるでしょう。あるいはそれはつまらない生かもしれないが、経験が教えるところによると、人によっては面白くすごすこともできる。
 そして、こちらは誰でも理解できるように、気の合った数人が、生理的消費物に囲まれていれば、人間は王侯貴族よりも幸せに暮らすことができる。

 それを抑えておいて、さて、人は気の合っていない人たちといやいや暮らすこともある。
 しかし、共有する文化というものは、たとえばキャッツアイ・ギターというものは、あるいはニコンFというものは、人の生を楽しく、豊かにできるものなのです。
 誰もギターを知らない世界、誰も銀塩フィルムを知らない世界で、ギターと旧式カメラしか知らないおじさんは幸せで豊かに暮らせるか?? それはむりなことです。彼は新しい、他人も知っている文化を共有しようとしなければならない。
 もっとも私は他にも趣味がありますが。
 
 と、ゆうふうに、文化をカネで売りとばすんじゃねえよ。あほんだら。それは自分を売り渡して消滅させるのと同じことだよ。
 

(注1)横浜市の住民だったことはないが、私も子供も青春や児童期に楽しませてもらった。

(注2)などなど。このように怒ってはみたものの、実は野毛山動物園の動物たちの多くは有料動物園ズーラシアに、群れ・家族から生き別れにされ、野毛山は昔を知る身には廃墟寸前のありさまのようだ。
 だから小役人の点数稼ぎだというんだ。1兆の予算があって、やることは名前の付け替えだけかよ。
 どのくらい廃墟か行ってないから知らないが、商業幻想ではない港ヨコハマの伝統の保養地を作れよ。



コーヒーブレイク・その2
2007-12-03 21:47:09 | コーヒーブレイク
 マイ・フェイボリット・シング、Nikon F.

 写真も趣味です。
 ニコンの良さは他の人の言うとおりで、別に付け加える必要はないんですが、せっかくですから写真の理屈を。
 
 写真ていうのは、かなりの人が言うように、時間を切り取るものです。
 この目の前にある外界、これは一瞬後に変わってしまうことは分かっている。
 これが変わる前に保存する。
 これが写真です。

 だから、別に写真機など何を使ってもいい、はず。
 はずなんだけど、これが違う。
 ある写真機は1000回のシャッターチャンスに1回壊れる。この1000回目は、私には大事な瞬間だ。
 ある写真機は巻き上げが長くて一瞬が過ぎてしまう。
 ある写真機は重たくって、現場に持っていけない。
 ある写真機はシャッターを押したのに、ボケボケで何がなんだかわからない。
 そこでニコン。
 それだけのものですが、それだけのものなのです。

 もっとよく写るものもある。大口径ツァイス・プラナーの人工色。これはきれいだ。
 しかし、一瞬後に変わる景色は人には大事だが、一瞬後に変わる色が好きなのはデザイナーだけだ。
 絵描きは、色を超えたものを見る。
 だから変色した絵でも人の心を打つ。
(おっと、別にデザイナーに恨みはありません)

 一瞬に大事なものはピントだけ。
 ま、言いすぎですけどね。
 とにかく、ピントの合った写真を常に提供するのがニコン。

 写真は、自分が何を見ているかを伝えるものです。これを伝えるために絞りを開けたりフィルターをかけたり、あるいは『極端には』フレーミングで強調したりする。
 これは「極端な」場合で、そもそもフレーミングとは画面の配置をどうするか、ということですが、本当は自分はファインダーで見ているのですからフレーミングがどうとかという技巧は関係がない、ファインダーで見たこの瞬間を伝えるのが写真です。
 もちろん、プロは画面配置はうまいですけどね。それは過去の感動をなぞっているだけで、世間ではそういうのをサロン写真といいますし、とってる写真師もそれは否定しないはずです。
 写真というのは自分がファインダーで見た感動を伝えるものです。
 それができるのが、ニコンF。

 もっとも、感動を感じない心調じゃ話にならないですけどね。そんな心調でもカメラを持って歩くと、ちょっと心が軽癒するものです。
 
 てなわけで、ご想像のとおり、実は仕事が外的要因のため、ちょっとヒマ。
 ちょっとヒマくらいが人間的ですよ。




ナショナリズム
2007-12-02 18:42:26 | 上部構造論
 間を空けて改めて見ると、このブログも読みにくいですねえ。本とどっちがひどいかねえ。
 それでもせっかく読んでくれる人がいるとすると、何かためにならないといけません。
 今回は「ナショナリズム」という言葉をめぐる混乱について。

 世間のナショナリズム論議で議論にもならない理由が、まずコトバの混乱です。
 
 愛国心が好きな人は、「『ナショナリズム』は愛国心で、これが分からないのは共産主義者だからだ」、という。
 ナショナリズムが嫌いな人も、「『ナショナリズムは誰にでもある。これを政治的に利用するからいけない』」とか展開する。
 共産主義者でも、日本共産党は、「間違ったナショナリズム(間違ってないナショナリズムがある)」「真の愛国の心で」とかいうんじゃないですか。

 ちゃうちゃう。
 人が何を思っていようがどんな行動をしようが、そんなものはナショナリズムではない。思うのは勝手さ。日の丸の旗を部屋に飾って毎朝三拝するのも勝手。
 そうじゃない。
 ナショナリズムは「イズム」、思想なんだから悪いのですよ。「国のためにお前が死ね」と「言うから」悪いのですよ。
 これを全員が隠している。いえるのは私のような本物の個人主義者だけ。
 愛国主義者の爺さんも、よもや自分が中国と戦争するなどと思ってやしない。するのは他の誰か。
 日本共産党も「愛国のために革命をしろ(二段階戦略の第1段)」といいたいところを他人にはいわないだけ。
 
 「いやそんなことはない。どんな国民も愛国心を持っている。お前にはないのか非国民」って。
 うるせえなあ、なんだよ、国民て。俺が生まれた国を好きだろうがどうだろうが、お前に言われる筋合いはないや。
 と、いいたいところですが、それも単刀直入すぎる。
 
 もちろん、なんにでも根拠はあるんで、愛国心もナショナリズムも空中から生まれはしない。
 人が生活のために集まると次のように行為に道筋ができます。
 まずは、生理的な消費物資を共同して作る関係から生じた必要による、共同性を守る規制ができます。この時期、用水の水は順番に使うとか、食えなくなったら最低限助け合え、とか。そして、この規制を守ることへは、賞賛・優越が与えられます。
 ここにひとつのまとまりができる。そして、このまとまりができた後は、その共同体が持つその後の教育機能によって子供の頃から賞賛がまとまりを強化します。家の手伝いをしろよ。この時期、用水の掃除は村のために子供がしろよ。

 次に、長い歴史のうちに武力による支配が成立するきっかけが生じます。
 自分の村にはもう食い物がない。しかし、山向こうの村には食い物があるように思える。
 武力による支配が成立するまでには、本来、本末転倒な、生き残るために死んだりする戦いに勝利するという、いくつもの生理的必要をめぐる闘争が必要ではあります。例外では、支配に向かう者たちに圧倒的な武力の優位にあるという場合はありますが。
 長いといっても、アメリカでもこの2,3百年で終わってしまう短さです。
 ともかくも、消費上の交換の地域的範囲において、武力的にこれを掌握し、支配層の消費を確保することとなります。これが国家であり、支配層への階梯が、可能性としては承認されている範囲の人々が国民です。奴隷はアメリカ国民ではありません。奴隷は法律的に「モノ」です。インディアンはモノではないようですが、当初、アメリカ国民でもないですね。
 
 さて、ともかくも成立した武力的掌握において、支配権力は常に武力を行使し続けるわけではありません。
 武力的支配層は、消費を確保できれば、生理的安寧を確保したがります。そのための支配ですから。すなわち、食っちゃ寝で日々を暮らす方向を目指します。
 この折に発生するのが、まずは「取り決め」です。
 取り決めは、それによって複数以上の人間を巻き込むことにより、武力の中の肉体力をさらに強化することができることになります。これはある場合には法であり、ある場合には共同体的規制です。

 なかなかナショナリズムに行きつきませんね。まあ、ここからですね。

【第1の場合】
 ついで、武力をあるひとつの世代を超えて継続させる場合は、支配の中に賞賛の繰り入れが発生します。
 今の支配者はもちろん偉いが、支配者の前の支配者はもっと偉い、というわけですね。こうした支配者の崇拝体制は、支配者のが行為する人格であることから、原始時代のように自然環境への迷信的依頼がある場合には、常に交換可能です。
 すなわち、宗教の支配思想化が生じます。

【第2の場合】
 武力的支配は、支配者の行為を媒介として、行為の共同性を押し延ばすことができます。
 自分は小さな村に住んで自給自足で生活している村長なだけであっても、支配者になれるかもしれない、と思える人間、=支配階梯の中にいる人間にあっては、支配者が欲しいと思っている毛皮のコートを確保することも自分の次の行為の目標となりうる、と思います。
 
 ちょっと横道にそれますと、人は消費をめぐって特定の生産関係に陥らされるわけです。
 生理的資源をめぐる関係(経済的関係)のうち、消費が個人行為にとって決定的である一方、生産関係は行為の共同性にとって、決定的です。
 消費においては、行為は他者の行為を自己の行為とすることはありません。他人の行為が問題なのは、せいぜいが食卓マナーくらいなものです。
 一方、生産関係においては、他者の行為によって自己の消費物資の獲得が決定されることになりますから、他者の行為を自己の行為に組み込む必要があります。そして、支配国家では生産関係と支配者の武力がセットになっているのです。
 村長が、とぼけて支配者の毛皮のコートへの欲望を見ないフリをすると、年貢で身ぐるみ剥がされ、あるいは引っ立てられて殺されたりします。
 一方では、支配層は、村長以上のこれに連なる支配階梯について、毛皮のコートを生産する他国について、「われわれと同じではない」共同性を事実認知として、作り上げます。
 他方、「われわれは同じだ」という神話も創ることになります。
 まあ、この神話は、支配階梯を同じくしない被支配者については不要ですけどね。逆にいうと、支配階梯が一致してくる場合には、つまり曲りなりに教育制度が整い、これに被支配民族も乗っかれるような時代になると、この神話を拡大修正してくることになります。
 
 さて、このように確立した国家においては、国家対他国家(あるいは他民族)の行動への国民を動員する必要がでますので、国家と宗教に関する教育を必然化します。
 ここで、国家というものは、ただの単語でサインに過ぎません。そんなものはないんですから。ないのですが、国家をめぐる行為として学校や宗教組織が押し付けてくる行為のすべては、個人個人の行為者に備えられていく行為の道筋です。これはいやでもなんでも現実にある。自分というものは、こうした行為の道筋の塊ですから。
 さらに支配が宗教を媒介手段として選んだ場合は、神は、ただの単語やサインではなく「行為者」なので、神による支配を招来することになります。

 でも、まだこれはナショナル「イズム」ではない。ただの行為規範です。
 「愛国心」を持った爺さんや婆さんがそのままナショナリストなわけではない。
 
 ナショナリズムとは、こうした過程を社会で貫徹させようとする運動のことです。それが「イズム」としてのナショナリズムです。だから、それは支配者の運動なのです。だからそれは戦争の温床なのです。だからそれは被支配者をも含んで良い世の中を作ろうとする勢力であれば、否定するのが当然の思想なのです。



【注1】
 一つのポイントは、自称確立した国家であっても内部の共同体と支配の階梯ができていなければ、ナショナリズムをめぐる過程からは外れるということです。
 この場合、内部の共同体がクニとなります。共同体というのは、生産関係、つまり生理的利害を共有することで行為の将来と規制を共にする範囲ですね。
 ナショナリズム過程から外れればよいかというと、そんなことはなく、ナショナリストの口車に乗った支配階梯に連なる兵士たちに蹂躙される対象となるわけです。

【注2】
 なお、共同性としては、その他に、宗教教義(や革命思想)のような行為規制を伴う抽象性が形作る人的な集合、要するに宗教セクトではそれ自体に宗派的共同性が生じますし、思春期までの、生活上の行為よりも行為方針の確立が重要な時期においては、青少年は、伝記的人物その他と仮想的な共同性を結ぶことができます。

【注3】
 「自己を管理する倫理」と「他者を支配せんとする思想」との区分とパラレルに、外界においては、「自己環境を保持せんとする愛郷土心」と「支配環境を保持させようとするナショナリズム」とが存在するわけです。
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「パリの爆薬」
2007-11-04 10:29:49 | その他
 隈の新しい著作、「万能書店」から公刊です。中身は「国家と変革の基礎理論」。
 ここはリベルテール(絶対自由主義者)のブログなので、国家の廃絶の主張の正当性を語ったものです、とでもいっておこうかな。
 国家とは何か。国家権力を壊すとはどういうことか。アナーキストなのに穏健派でいるということはどういうことなのか。別にアジテーションの本ではなくて理論書ですけどね。
 これに3年もかかってしまった。
 理論部分は1年で8割書いたんだけど、中の話に1年7ヶ月かかってしまった、って配分。(残りの5ヶ月は出版待ち)。パリまで出張取材を敢行した手間のかかった作品です。
 遊びに行っただけですけど。
 こちらが詳細の紹介。
 
 登場人物が、シリーズみたいになって活躍してくれるのは、作者としてちょっとうれしい気分です。他に楽しみがないともいえるんですが。

 なお、万能書店というのは、ネット上で本を作って販売場所を提供してくれる会社です。一般書店では売っておりませんのでご注意ください。
 皆様も、売れるための本を作る気ではない、ということを前提とすれば、一番安く本ができる出版会社ですので、ご利用になったら?

構造主義
2007-10-28 22:14:18 | 上部構造論
 HP派としては、毎日何が起こっているかというのは問題じゃない、っていうのが基本ですよね。昨日はふろしき残業で大変だった。明日は仕事ホンチャン、大変でないはずはない。
 なんてつまんないことを口に出したくたって、そんなこと書けないじゃん。つまんねし。
 なんつってるのはもっとさみしいね。
 
 というわけで「構造主義」
 
 1ヶ月前に紀伊国屋(書店)で本を買ってきて、ここのところの話題というのは、帰りがけの電車で読んだ本に挙がっているテーマなんですけどね、ってこれがその最後のテーマ。本題はアルチュセールというフランスの社会学者なんですけど。
 
 さて、あるシステムは、武力権力者の生理性と、それ以外の者の生理性の折り合いの中でシステムとなりますが、システムは武力権力者の趣味との折り合いの中で種々の色合いを持ちます。詳しくは隈の著作参照。 
 この色合いの下のシステムについて、構造機能主義と呼ばれるものの出番がきます。システムには構造という、とりあえず変えられないものがあって、それというのもその構造の構成素がそれぞれシステムを支える役割を果たしているからだ、というところですね。 
 そうした見方はある程度役に立つわけで、現日本資本主義体制では、仮に公明党が同数の国会議員を持つ民主党であっても、日本の政治の帰趨は変わらない。この状態を把握するのは、機能という言葉が簡便である、てなもんですわな。
 さてところで、しかし、ある一定の時期に、この下のシステムが空白になり、武力権力者たちの趣味が垣間見られることはある。こういう例外的な事象には構造機能主義は目を瞑ることになる。
 ここにフランス系の構造主義が妥当する事象が垣間見られることとなるわけです。
 社会科学的にはあまり重視されなく、これからも重視なんかされるはずもないハズレ科学。それもまあ、存在の意義はあるという。
 たとえば現代日本の場合、政府施策にバラマキ福祉が生ずるのは、かなりの程度公明党の存在のためで、それを見て、仏教の永年の隠された伝統が社会で構造をなしていてこれを生むのだ、ともっともらしく言うのも赤坂あたりの酒席の話題としては高尚な議論なわけです。たしかに、個人主義者たちの西欧キリスト教では出ない発想には違いはありません。構造機能主義では把握できない現象ではあります。
 
 なんて構造主義を褒めたかに見えるようでも(見えないか)、結局、構造機能主義にしても構造主義にしても、どちらも認識の簡便によい、というに過ぎません。
 本来の主体に即した行動環境を述べるには、トータルに行為の規制要因と行為による働きかけ作用とを述べていくしかない。
 今、構造機能主義等が簡便だといいましたが、行為論的な社会学は、哲学体系や神学体系のような構造機能主義やフランス流構造主義よりは何十倍も理解には簡単なはずです。それが他人の観念の制作物ではなく、私たち個人の行為の表現だからです。間違っていればそれは(私とかの)個別の社会学研究者の誤りに過ぎないことがはっきりしている。
 世の中は複雑ですが、社会科学は、同じ個人の人間の行為の反映を語ればよいだけのこと。なんら複雑なものではないはずです。
 もっとも、自分の趣味と生理性に生きる人間には、この交錯が理解できない。彼らには、趣味の日常のほうが重要だ。
 まあ、我々は、天皇や世襲資本家のことまで考える必要はないのですから問題のないことです。


(注釈1:フランス構造主義とは何か)

 およそ概念は、本来そのために出現した人間の行動から離れるのに従って、自由気まま、なんでもあり、の呈をさらす。
 ソフィストの「矛盾」なるものの半分はそうだ。矛盾でもなんでもないのだが、概念を規定するときに行動から離れるから、現実にはありえないイメージを創出することになる。
 たとえば「コトバとは何か」という問いかけについて、「私があなたにしゃべること」という現実を離れれば離れるほど不思議そのものとなる。いわく「言語が人間を作る」。
 ポスト構造主義なんて人々は、もうすでに「いっちゃってる」状態だ。
 こういう人々を説得する気はないので、若い人たちはこういうのに近づくなよ、という趣旨で話したい。
 これはなんでも同じなので、たとえば「時間」などというコトバがあって、そんなものがあるかといえば、「時間」なんてものは誰も見たことのないものだ。
 そんなものは行為が推移するさまを指すさけの言葉であって、この行為の推移から離れるほど摩訶不思議なものとなる。いわく「タイムマシン」だ。
 「昔に戻りたい」という気持ちまではまともだが、人間の行為のほかに「時間」なる世界があると観念するとその世界の「中で」行為できるかのごときイメージが沸く。
 が、本当は時間なんてありはしない。
 あるのは「原子」(なりのエネルギー形態)が、物質にとって同一の現在の中で、常時存在形式を変えているだけの過程なのだ。
 概念が自立するという、東アジアの言霊観念さえ越えた神がかり的な発想は、ヒマな貴族(=自由市民)のおしゃべりが文化であったイタリア起源のもののような気配はするが、私は西欧人でもクリスチャンでもないので本当のところはよく分からない。ただ、19世紀のフランス詩を思い出せば、フランス的構造主義は、近代フランスの歴史的伝統とは相当相関関係があるような気がする。(ちなみに、ローマ自由市民とは、アラブやドイツ、その他自立社会だと「王様」と表現されるべきかもしれない)。
 もっともソフィストの矛盾にはもう一つ、関係の間の矛盾、というものがある。ある関係を受け入れて表現すると、別の関係を受け入れて表現することについて、矛盾が発生するというわけだ。だが、これは社会の矛盾を正しく伝えるわけで、ある意味よいことだ。それには解決するテーゼを立てればよい。

(注釈2:世界は存在するか)
 
 西欧の300年の知識の伝統では、まずは物事が存在するかどうかを把握したがる。これがギリシア文化以降の貴族の暇つぶしの伝統だ。そんな貴族の伝統を捨てればもう少し賢いことがわかっただろうに、と思うこと久しい。
 存在するとは、本来、行為において考慮の対象になるという状況を指している。
 それが「本当に」存在するかどうか、などというのは神学の問題だ。
 神学がしたければ、野原の里イモでもかじりながら、『この里イモは本当にあるのか、本当はないのになぜ私の腹がいっぱいになるのか』とでも考え続けるがいい。
 しかし、生活者である我々は、他者と米を作らなければならない。他者と共に協働して自動車を作らなければならない。世迷言をいっていたら死んでしまうのだ。
 社会科学とは、そういうポカンとしていれば死んでしまう人間(=貴族ではなくブルジョワ以下個人)のためにあるのだ。しかして、西欧では産業革命以後、ブルジョワ階級の支配階級化に伴ってようやく出現したというわけだ。もちろん、日本はその後塵にあずかったわけで、偉そうに「大日本帝国」などと語れる筋合いのものではない。
 これは日本ナショナリズムを否定する論拠ではないけどね。
 私は是々非々。




プチ・コーヒーブレイク
2007-10-14 22:20:46 | コーヒーブレイク
 すごいですねえ、ブログの威力。私のホームページが、わずかに引っかかっていたヤフー検索にも載らなくなって数ヶ月 (ウソ。2、3ヶ月)。ブログを作ったら、すぐ天下のgoogle系検索に載ってしまいましたよ。ヤフーなんかまだ載らないし。 (これは宣伝をかねてますので、スパムコメントも大事にしておるところでございます)

 というわけで、知らない方がこちらにみえると字ばっかで驚かれるので、この辺でコーヒーブレイク。マイ・フェイボリット・シング。

 お、マーチンじゃないか、と思われた方は、その瞬間プチお友達です。おや、キャッツアイじゃんか、いい色だしてるね、と当てられた方はコメントください。
 その通り、今は亡きキャッツアイ。これはCE―500。
 就職して初めてのボーナスの余りで、渋谷の黒沢楽器で買ったものです。
 ミディアム弦をつけるととんでもなく上品な音が出ます。
 ただ、ネックが曲がるのが異常に嫌いなので、すぐ外してライト弦にしてしまいました。
 前はヤマハのなんとか130だったか、ドレッドノートタイプでネックが細い上に反った感じでセーハがしにくいんです。てゆうか、指に肉が無く (隙間ができる)、力も無く、セーハは完璧に、全く、少しも、全然、できません。そのまんま、大人になってしまいました。
 だいたいヤマハ製ギターって、今でも多少その傾向はありますが、胸部は小さくって腹がドデカイんですよね。あんなんだよ、昔のヤマハ。訳がわからん美的感覚。しかもあのいかにも日本文化のピックガード (端っこがバチの柄のようになっている)。
 そのヤマハは中学生のとき、さして裕福でもない親が買ってくれたのでケチはつけませんが (つけてるか) (いや、大人になって思うと感謝するしかないところですが)。音はよく響きますよ。ほんと、あんなんだよ、このドデカイ音は、って感じ。

 昨夜久しぶりに爪弾いてみました。マーチン・エクストラライト2年間張りっぱなし弦はとても固く、いつの間にさび付いた糸でくすり指を切りました。うそ。左指全部が相当嫌になりました。

  いや、字ばっかですね。


注1:キャッツアイは女泥棒漫画ではなく、マーチンギター公認のコピーギターのブランド名。東海楽器という、知る人しか知らない有名メーカー製。
注2:ミディアム弦は、硬さがミディアムの弦。太い→強く張る→硬い。だったのですが、最近は違うのかもしれません。
注3:エクストラライト弦は、一番柔らかい弦 (2番だけど)。フォークコンサートプレーヤーにとって、弦は普通最低2週間以内で張り替えるべき。



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イデオロギーとユートピア
2007-10-07 13:23:37 | 上部構造論
 ミャンマーでは、僧侶らが主導する過去約20年間で最大規模の民主化要求デモが続いているようです。
 って、いつの話だ。今日はそんなものはありません。これは9月26日新聞記事の貼り付け。
 ブログらしく今日の出来事を載せようと思っていたら、注記の事情で時が過ぎていってしまいました。

 話は飛んで、カール・マンハイムという過去の社会学者の用語で、「イデオロギーとユートピア」なるものがあります。現体制維持のイデオロギーを「イデオロギー」と呼び、まだ見ぬ理想の国を志向する変革のイデオロギーを「ユートピア」と呼ぶ区分けです。
 そんなものに何の意味があるかというと、それまでのイデオロギー概念は、「イデオロギーは下部構造によって規定される」というものでしたが、この「下部構造」が経済的な利害関係としか捉えられていなかったということがあります。利害関係に沿ってイデオロギーは作られる。
 そこで彼のしたのが、それじゃあ「まだ見ぬ国はどうやって知るんですか?」という問いかけですね。変革のイデオロギーとは、経済的な利害をナマで出すものではなくまだ見ぬ国を思い描くものです。マンハイムの答えは、知識層によってこれを設定できる、というものでした。

 さて、彼に否定されたはずのマルクス主義者の諸君は、どうしたかといえば、実はマルクス主義者としては我が意を得たり、というところなのです。
 彼らは「主義者」ですから、運動が命です。ただの知識人なのに自分達が革命を実現するんだと思ってますから、おっしゃるとおり、理想の国は我々の示す革命後の社会。これを提示する我々前衛の役目は決定的だ。「ユートピア」という響きは都合が悪いので使いませんが、あとは密輸入です。「観念にも一定の役割がある。エンゲルスもいっている」てなもんです。
 エンゲルス? 70過ぎたご老人に新しいことを言わせるほうが悪いというものです。イデオロギー論の確立は、それから100年の時間が必要なのです。
 間違ってれば悪口をいっていいというものでもなく、若いときに観念の原則を世界史上初めて打ち立てた(フォイエルバッハテーゼ)のは、広松渉によるとマルクスではなくエンゲルスだということです。どっちでもいいけど。
 エンゲルスという人は、働きながら中高年までの人生を、友人の、読むだけでも大変な資本論草稿をあれだけのものにして出版する時間に充てた人です。ただの手紙に何を書こうとイデオロギー論がなってないなどといわれる筋合いではありません。

 まあ、それはそれ。
 イデオロギーについて真実はもうご存知ですよね?
 え? ご存じない。
 では拙著『光の国のダンサー』(イデオロギー)と『風とベイシティキャット』(知識)をご覧下さいませ。
 要するに、人は行為する時には自分の1秒後の将来をイメージする。
 生理的に生存できる将来。
 賞賛を確保できる将来
 自由を、つまり対外的優越を確保できる将来
 これらについて、事実として、ありうる現実として、外界を把握している必要があること。
 (中略)
 だから、下部構造が上部構造を規定するわけです。

 ところで、ユートピアです。
 ユートピアで必要なのは、この事実なのです。
 何かをしたい、でも何をしたいのかわからない。この「何」を提供する必要があるわけです。
 このことは頭脳作業だから観念の反作用がある、などといったら、マルクス主義者のように味噌もクソもになってしまうから止めてくださいね。
 「何」は、科学と事実です。
 科学はイデオロギーではない。事実もイデオロギーではない。
 もちろん科学と事実のセットを、行為の指針としてぶち上げることはイデオロギーです。これは思想ですから。(ブログ9月23日用語解説参照)なお、科学といっても、現実に妥当する迷信は一緒ですけどね。

 さてミャンマーです。
 残念ですが、ここには統一イデオロギーがない。これではまだまだ地道に闘っていく必要がある。
 でも暗いわけではない。日本と同じに。そんなことで暗かったら、人間生きてはいけない。闘いが一つ一つの事実となっていく。ただ、先が長い。

 統一イデオロギーがないのがそんなにダメなことなら、イデオロギーにも役割はあるんだろうって?
 おっしゃるとおり役割はあります。しかしそれは反作用などではない。
 イデオロギーは人間が生きていくときに使うものです。そして生きていく土台は下部構造です。デモをして下部構造が変わるわけではない。
(国家権力は下部構造ではないことは知っていますか?)

 ミャンマーは、私は知りませんが、デモのスローガンから逆算しますと植民支配的農村国家のようですね。武力権力に他国の経済支配が重なっていく国家で、ただ、農村国家というものは、農村のことだけうまくやっていれば、生きていくのに民主主義など必要のないものです。一般論ですが。
 ミャンマーの闘いは今のところインテリ各層間の争い、というところに見えます。もちろん個人の自由のためには、民主主義派の勝利が必要なのですが、それって、生産現場=圧倒的広域であるような農村での個人の勝利が見据えられるところでないと現実にならない。
 それが下部構造というものです。

 でもですね。世界資本主義は1国家の下部構造を超える。
 国家権力は、これを促進することが出来る。詳しくは拙著『パリの爆薬』をご覧下さい。
 あんま、詳しくないか。

 ではまた。明日は休日出勤。



【注記】

 マンハイムのそれに限らないが、社会科学上のイデオロギー概念への最も簡単な誤りは
 「(マンハイムは)バークの主張が『イギリスの支配階級であった門閥貴族のイデオロギー』であるとしている点であるが、完全な誤りである。」という主張だ。
 いや、他意はなく、ネットを開けたらすぐに飛び込んできたものだ。私も右翼の思想にまでは手を広げてないので、あわてて1週間費やしてバークというのを『中央公論・世界の名著』で確認してしまった。マンハイム原著(訳)も確認したが、適切な取り上げ方だった。ネットというのは役に立ちはするのだが、玉石混交なのは困る。もちろん本屋にだって玉はめったにないが、私の本棚には石は置かないようにしている。

 さてネットでは下記のごとく主張する。
 「バークは決して門閥貴族ではなかったし」
 「厳密にはイギリス人ではなくアイルランド人だ」
 「またカトリックなども、彼の幼少期にはごく身近なものであったし」
 「彼がウィッグであったことも忘れてはならない。」
 「今日では自由主義経済学者としてのバークも注目せられている。」
 「さらには保守主義という総体を取ってもバークはマンハイムの言うような身分重視がみられるが、カーライルにはそれがないといったように、」
 「イデオロギー或いは世界観の体系は存在しない。」
 
 残念でした。バーク一つとってみたが、マンハイムなり社会科学でいうイデオロギーとはそういうものではないのだ。
 
 それでは、資本家の息子も、ハワイ人も、牧師の息子も、社会主義者にはなれない。
 あるいは公明党員は資本主義を擁護できず、フリードマンが慈善寄付をしてはいけないし、カーライルは奴隷制度擁護も大衆蔑視もしなかったようだ。まあ、私はカーライルなんて知らないけどね。
 
 さて、誰がそんな単純な話をしているのだろうか。
 
 いったい、自民党員は全員が差別擁護者なわけはないが、しかし(ほとんど)全員が自由経済主義者だ。これをイデオロギー的には「一定の差別・容認主義者」という。文化のヘゲモニー(グラムシ談)を確保するためには、それだけで十分だからだ。イデオロギーというものはそういうものなのだ。
 まあ、マンハイムの時代にはグラムシはいなかったが、グラムシもそう難しいことをいったわけではない。(し、難しくするとアラが目立つので、あまり勉強しないほうがよさそうな気もする。)
 どんな底辺からの成り上がり者でも、権力階梯を上がるためには支配階級に利するイデオロギーを持たなければならない。
 井戸端評論はいざ知らず、少なくとも社会科学においては、私のイデオロギー論を待つまでもなく、昔からそのぐらいの初歩的な認識はもっていたのだ。
 
 もっともマンハイムの『イデオロギーとユートピア』は、社会科学というにはあまりにも概念がいいかげんだ。訳者には悪いが、本気になって読まないように。ウツると困る。これは社会学史か何かで概略知っていればよさそうだ。それよりも、同じ著者の『世代・競争』は秀逸だと思う。いまだに、越える著作の出ない世界の名著のはずだが(30年前読んだだけでかなり忘れている。こういう題材の解明は、科学的な手法では難しいのだ。ので私も手をつけていない。だからといって、そんなものを扱うのは社会科学ではない、とかいうのは本末転倒。なんのために社会科学をやっているのか忘れ果てた人間のセリフだ。)、若い人の目には触れないだろうなあ、、、
 


ピラミッドと奴隷、そして経済学
2007-09-24 21:49:32 | 賃金・価値・権力
 今日は3連休(先週は出勤)
 なんか家族が忙しくて遊びにいけず、でも鎌倉の萩の花もたいしたことないしな、(鎌倉の)彼岸花なんて陰鬱だしな、と負け惜しみのうちに不貞昼寝して、夕食にそこそこの日本酒(妙高山だった)を呑んで温泉気分で風呂に入る今日この頃、
 
 なんかテレビで、ピラミッドは奴隷が作ったんじゃない、それは慈悲の公共事業だ、とかいってましてね、そのヨタ話は前から知ってますが、家人が「そうなの」とか感心してたんでちょっといっておきますが、
 
 ざけんじゃねえよ。
 誰がそいつらの飯の種を生産したんだよ。
 てめえら自身だろ。王様と兵士がパン作って食わせてやったのかよ。
 あほんだら。
 
 奴隷なんて一口で言いますが、奴隷はほっといたら死んじゃうんですよ。人間には飯がいるの。
 何十年も奴隷を働かせるには「農奴」化せざるを得ない。自分の飯は自己責任だ。
 
「ピラミッド作るなんて1年じゃできないんだから、自分達で飯ぐらい作ってもらわなきゃ困る。
 もちろんその分は君達に預けとくとつまんないことに使っちゃうから、はじめっからエジプト国王が召し上げてやるからね。そいつを君達に返してやるよ。働きに来りゃ返してやるのさ。もちろん、ちょっとは目減りしてるけどね。
 でも殺されるよりはましだろ!!」
 
 そりゃ奴隷だ! 
 どうすれば奴隷じゃなくなるかって? 自分で奴隷になってみりゃ分かるさ。多少だったらつらくともいい。やりあげた、って自覚のある仕事をしていられればね。でもつらさは多少だけ。そんなことは働いていりゃすぐわかるさ。
 わかんないのは子供と、分かると都合の悪い人間だけだ。
  (P.S.やはり「生殺与奪の権の有無」というのを付け加えないと、アメリカの奴隷の人に怒られますでしょうね)
 
 そんなこと、経済というのは誰かが作って誰かが食べる、そのメカニズムの様式だ、しかもどんな時代でも人間はそこから逃れることはできない。って一言教えれば誰だってわかることじゃないですか。
 きみい、中学や高校の社会科の先生諸君、どうしてそんなことが教えられないんだ。
 もっとも僕だってその理由は知ってるけどね。ケインズの結論の派生に過ぎない技術を、結果としてありがたがって教えてるからだ。
 情けない。
 ケインズだってその時代にはこの根本を知っていたさ。
 経済には経済の原則がある。今じゃそれを教えられる経済学者は100人に1人。ちょっと脱力感。 
 
 でも、ブログっていいですね。
 わざわざこんなこと本に書いてたら、(注)で膨れ上がってしまう。
 と(旧)HP派。



虚偽意識
2007-09-23 21:19:58 | 上部構造論
 夜9時。首都圏ではあるが田舎の駅の近く。
 通勤帰りの中年男が親子3人ほどのグループを追い抜く。
「、、、きょう、、くりのはいった、ごはん、、たべたんだよ」
 やっとかっと、言葉にする3さいくらいの女の子の声が後ろでする。
(そうなの、栗ごはんね、、、) よかったね、と思う中年男。
「うそつけ」
 冷たく切り捨てる、これは小学生くらいの兄の声。
 
 なんてえやつだ。
 こんなやつとは付き合いたくないぜ。
 中年男は女の子の声を反芻しつつ足を速める、、、
 
 以上、中年男でした。

  ******************************
  
 
 言葉は社会との窓です。人はこれによって、社会での自分の自由を確保しようとします。
 
 およそ抑圧された者の自己回復の第1の工夫は、自分がさらに下位に置かれてしまう他者が現に位置するイメージを切り捨てるところにあります。
 その行為が実は現実に反していても、それはどうでもよいことです。
 兄ちゃんは、きょうの日能研の点数が悪かったのでしょう。
 そう、たぶん、もともと先の会話は、塾帰りの兄ちゃんを母妹で迎えにいった際の場面なんだと思います。
  
 抑圧された者の第2の工夫は、自分を抑圧者と同じ位置に持っていくイメージを作ることです。
 上に上がりたい人間は、上の人間の言葉を真似をすることで、上の人間になったような気がする、上の人間の言葉を使うことで、上の人間にとっての下位の人間が恐れ入る、かのごとき、気になります。ましてや、自分の仲間など、エラい人間の言葉に刃向かえるわけがありません、と思うんでしょう。
 その行為が実は現実に反していても、それはどうでもよいことです。
 なぜならそんな言葉は「自分とは関係がない」からです。本当は関係があることは、社会科学を教えてもらわなければどうして知り得るでしょうか。
 こうして、上層者を夢見る言葉は、上層者のウソを受け入れ、かつ、そのことによって、自分を裏切ることになります。
 「社会には競争がなければいけないんだ」
 とりあえず、この言葉によって、ライバルを蹴落とす自分、売り込みに負けてお得意先からすごすごと引き上げる他社の営業を見る自分が正当化されます。
 ”これが自分に返ってくるって? ばかをいえ。おれが首になるのはそんな言葉じゃない。人事部長の一言だ。”
 はい、おっしゃるとおり。
 資本主義は言葉では動かない。
 資本主義は人間の衣食を握っているからです。資本主義に刃向かっては、労働者は生きていけない。
 しかし、衣食の足りた人間は、資本主義に刃向かえる。政治権力者、その他の国家権力関係者には、資本主義は考慮の対象でしかない。

 実は、競争などなくても資本主義社会はやっていける。物など安く売ろうが高く売ろうが、買う人間さえいればよいのです。それでも、製造業で同期で部長になれるのは大卒でも7割しかいないだろうし、金融業なら2割かもしれない。お得意先への納品は1社しか選ばれない。それは結果です。
 競争など資本主義の運動の結果の表現にすぎない。
 じゃあ、なぜ「社会には競争がなければいけないんだ」なんてわざわざいわなければいけないんだ?
 資本主義の環境は国家権力が作成するからです。
 
 今の時代、資本主義経営者からの国家権力への要求は、自国民の生活水準の低下です。売れるものも作れない産業下では、買わないくせに物を買える賃金を得てもらっては困るのです。それでは会社が共倒れる。といって我々である権力者層の収入を削るなんてまっぴらです。そこで会社同士とは違ってもともと友なんかではない下級労働者諸君に犠牲になってもらう。
 とりあえず、今までは年功制なんてものがあったから若年層が犠牲になれ。なに、すぐ、実力制にして中高年をスムーズに貧乏にさせるさ。若い奴のほうが大切だからね。
 ここちょっと、複雑。資本主義は、やっていけるのだけれど、資本主義を管理する人間からすれば、そういう人間行為者をバカにしたことをするのは危険すぎる行為です。人をバカにすると国家権力が変更される。そうすると資本主義まで弾みで殺されるかもしれない。
 
 国家権力の行使によって、世界資本主義の進展を滑らかにさせる。資本主義を安定させつつ自国の労働力を安く売らせる。
 この国家権力の武器がコトバなのです。
 さてはて、課長にさえなれない人間が、正社員にさえなれない人間が、お人好しにも「社会の価値」を体現して「競争」を口にする。いったい、学校でなにを教えて来たのか、、、社会科学を教えろよ。
 
 これが二重に誤った意識、虚偽意識です。

「この意識は一方に於てその誤謬を自覚し得ないと同時に、他方に於てその誤謬を自覚することを決して欲しない。だからこれは単なる誤謬ではなくて正に虚偽であり、而もただの嘘とは異って一人又は数人の個人が故意に偽った結果であるとは限らないので、却って社会の多数者によって支持される結果それが嘘であることを自覚し得ないような虚偽である場合が極めて多い。」
(戸坂潤)(戸坂潤全集NETさん、ありがとうございます)

 戸坂潤という人は戦前のマルクス主義者です。
 あなたがもしも本当のアナーキストなら、30年前までのマルクス主義者を勉強してください。
 どんな間違った立場であれ、自由を欲した人間の営為は、人民の財産です。



【用語解説】

※「思想」
 他者の行為をそれに準じさせることを意識して他者に発する一連の言葉のこと。
 自分の行為を準じさせるために呟く独り言は思想ではない。それは「倫理」と呼ぶ。
 
 タテマエ上はそれに自分の行為を準じさせているものだが、これを他者に表明し、『マトモな人間ならこうするんだよ、あえてお前にしろとはいわないけどね』と従順強制を潜在的に示しながら発せられる言葉は、「倫理」ではなく「倫理思想」という。

※「イデオロギー」
 思想の核として、共通の様相を呈しているもの。
 思想は人の数だけあっておかしくないが、よく見ると、いやよく見ないでも、生活している人間は、それらの思想をいくつかに分類することができる。
 自民党の人々が発する思想と、共産党の人々が発する思想とは、100万個対40万個ほどもあるが、これは多くの人にとって、1個対1個と把握することもできる。
 この1個と1個は、人によっては20個対4個という分類かもしれないが、いずれにせよ将来を考えながら行動する人間にとって、自分を取り巻く思想には共通の核があり、イデオロギーとは、こうした共通の核のことである。

※「イデオロギー=虚偽意識」
 虚偽意識概念は、マルクスではなくエンゲルスが示したことで、この命題にも訳知り顔で不信感を抱くやつもいる。が、エンゲルスは経済学以外ではアホではない。
 普通の人間にどうやってわかりやすく述べるかで、ペンがすべることがあるだけだ。
 およそ、実践を考えている人間には、人の動きはトータルに見えざるをえないのだ。
 毛沢東しかり。
 だいたい、大衆への普及の文章に、大学の哲学演習のような注釈をつけて、俗流マルクス主義だの何だのとけちをつけ米代を稼ごうとする奴の根性のほうが間違っている。

 あ、これは「理論と実践」のテーマではないね。

※「マルクス主義も虚偽意識だ」
 昔、マルクス主義が物珍しかった時代、マルクス主義政党も一つしかなく、この党派が自分の党派の実践の役に立つものは真理で、それ以外は虚偽意識だ、とぶち上げたものだから当然起こった反論の要旨。
 若い人たちは、オウムやサルのように使ってはいけない。いやオウムもサルも大変頭はよいのだが。 
 もちろんこの反論自体は、思想というものは、自己の行為の将来の自由を表現する以外にない、という一つの側面を表してはいる。マルクス主義政党の個々の思想は、個々の組織的将来を反映しているにすぎない。それはそうだ。
 しかし、元の【イデオロギー=虚偽意識】という立論は、そんなことではなくて、被支配者たる労働者人民が、支配者の言葉をオウムのように使わざるを得ない、という労働者階級が陥っている矛盾を表現したものなのだ。
 マルクス主義は社会で支配的な思想だったことはない。議論を混乱させないように。
 今ではいくつものマルクス主義党派が自分だけは真理だといっているから、どんな人民にも党派性はイデオロギーであることは分かっている。わざわざ本質を曲げる批判をするものではない。


   なお、下記コメントは、検索エンジン用に飼っているだけのものです。くだらないので開かないように。↓

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はじめまして 隈です
2007-09-17 11:49:52 | 初めの言葉
これがブログというもののはじめての画面ですね。
ざんねんなのは、これってすぐに日記の奥に埋もれてしまうんですよね。
  なんかつまんないなあ、と実はHP派。

それはそれ。ともかくも、よろしくお願いいたします。

まずは、このブログタイトルの説明で。

「リベルテール」とは何か。日本語にすると「絶対自由主義者」、下世話にいう無政府主義者のことでんねん。なぜか関西弁。

英語でリバータリアンていうんですけど、びっくりしたことに最近はリバータリアンというのは自由経済主義過激派のことを呼ぶんだそうな。
さっきもネット検索したら、その手の人たちが「リバータリアンて、無政府主義者が本家はこっちだなんていってるよ、うそつきだね」みたいな話を載せてました。
冗談でしょ。
ぼくらが高校生のときは、リバータリアンには無政府主義穏健派以外の意味なんかなかったさ。
というわけで、これ以上お子チャマたちに名前を取られないように、生き残っている「リベルテール」の言葉を広めようかと思っています。

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