皆様に

隈 栄二郎



それにしてもご質問がなく、このページは長いこと昼寝中です。
世間話なども募集中です。どうぞ遠慮なさらずお便りください。


順番はとりあえず古いもん順で。久しぶりに増えまして、ありがとうございます。


Q1
「隈栄二郎」って本名ですか?
                         (ミント様より)
A1
子供の時?からのペンネームです。
そのころは、有名な大人に「なんとか郎」っていう人がたくさんいまして、ちょっと憧れでした。
たとえば、小野十三郎(知らない?)、谷川俊太郎、高村光太郎... そう大江健三郎なんて人もいました。
アルファベットで書いて、その頃のサイン文字を引くと本名になるんですけど...
おや、合わないなあ(苦笑)


  (後刻、他の方へ: 冗談を除けば、わたしの名前は心の中では、「KUMA A(ei)JIROO」なのです。残ったのがサイン。どうでもいいけど)

☆☆ ちょっと割り込みで、

「光の国のダンサー」でのお詫び:
 申し訳けないことに、参考図書;守山実花さんのお名前を「美花」さんにしてしまいました。
 まあ、なにかと理由はあるんですがごめんなさい。次回、機会が持てれば訂正させていただきます。

Q2  隈氏の「奴隷的支配」、「赤線」に対する記述をみると、氏は「奴隷」について、「人が他人に所有されること」と規定されているようだが、奴隷の本質的規定は「売買されること」ではないのか。
                          (樋口様より)

A2  どうも何が本質か、というのも困りますが、少なくとも、吉原の女性や、イスラム軍のエリートも売買されたわけだけど、そこまでを「奴隷」というともっと奴隷的な人が怒るんじゃないか、と思います。
 結局言葉を拡大していくと元の現実がみえなくなっていく。
 吉原の女ないし赤線系の女性が奴隷「的」というのは正しいと思いますが。

 基本的に「奴隷」とは、支配層からの全くの行為共同性のなさに由来する生産支配形態下の人たちだと思います。
 問題は支配とそれを色付けする共同性であって、購買の有無ではない。
 もちろん所有は支配に由来します。
 いわゆる「奴隷」、日本語の字義そのものの奴隷も、売買されるから奴隷なのではなくて(仮に売買が禁止され、すべて贈与で所有することという法ができても奴隷は奴隷です)、生産上の支配下において共同性のなさから牛や馬のように殺されうる点が奴隷なんだと思います。

(読みづらすぎるのか,ご質問が少なく)

Q3 (ミント様の話の続きから)

「制度の変更」について。
 私は、まず生理的に食べていくことが重要だ、ということは分かるけど、今の日本の制度を変えることについて、今の日本では事情はどうだと思っているんですか。
A3  今の日本では、現在起こっているように制度は変わっていきます。
 それは運動を続けている人がいるからです。
 例がないと考えづらいですよね。
 たとえば、男女平等について。

 男女の平等化は、戦後ものすごく進みました。
 経済的な位置づけでも、今、女子労働力が消えたら、とりあえず日本は恐慌に陥らざるをえない。
 (もちろん、これは運動を続けて来て今になったからそうなんで、たとえば経済原論的に日本経済に女子労働力が不可欠なのかといえば、そんなことはありません。産業構造は大幅に変わらざるをえないけど、女子は家庭で黙っていてくれるんならそれはそれで経済は進んでいきはします)

 こうなったのは、女性が結婚をしなくても生きていけるようになったから、というのがまず一つ。
 これは、別に女性の職場が増えたから、ということではなくて、女性が職場をやめないですむようになった、ということです。
 それは運動が進めて来た結果です。
 やめないですむようになったら、それに伴う社会制度が整って来ます。保育園や学童保育。それらの存在が、こんどは、安い上がりの労働力として、女性の職場を増やしていきます。
 その結果として、売れるものがなくなりかけた資本主義の世の中で、女性が身にまとうものを作る産業が大きな位置を占めるようになります。その位置が大きければ大きいだけ、社会の賞賛領域が拡大していく。食品産業もレジャー産業もIT産業も、女性の懐ろ次第になった。

 おおまかにいえば、女性はそこで1ランク、生理性から解放されました。もちろん、根本的には解放されていないけれど、それは男だって似たようなものです。

 生理性から解放され、過去とは違って個人としての女性が、自分が生きることで得られる賞賛が非常に拡大しました。しょせん商品世界の出来事だから、賞賛に乗れない人たちはたくさんいるけれど、それでも「人は本来幸せだ」と思えるようにさえなったようです。

 さて、そこでもう一度、男女平等について、
「まず生理的に食べていくことが重要だ、ということは分かるけど、今の日本の制度を変えることについて、今の日本では事情はどうだと思っているのか」

 第1に、生理性では男と同じに、資本主義を傷つけない範囲内で生理性から解放されている。
 これからも、資本主義を傷つけない範囲で、運動が進められ、その結果が勝ち取られていくでしょう。(なんかひとごとですけど)

 第2に、その運動は、資本主義の生理性に保障されているから(具体的に言えば、たとえば女性の購買力は大事だから)、社会の賞賛も得られています。
 その意味でも、日本の制度は変わっていくでしょう。

 この第1と第2でいいたいことは、
・ 日本では基本的には生理性が確保されているので、何かをしゃべるときは必ず「賞賛」の要素が入ってくること、
・ だけど、生理性と賞賛はペアで動くので、賞賛だけ強調するのは間違いだということです。

 第3に、これがミント様との話の本旨なのですが、じゃあ、これからどこまで日本の制度は変わっていくのか。
 その答えは、運動が国家権力を手に入れながら続けられるのかどうか、で違って来ます。
 国家権力が関与しない資本主義には、1日労働力を最安値にできる男性労働力の形態は必須です。なんてカタイことをいうと怒られますが、人件費を安くするためには残業づけにしても平気な労働力が必ずいるのです。そしてそれらの労働力の行き先は社会のエリートである。そしてその家庭には「専業主婦」がいる。
 だから女性が「強く」なる、そのための制度の変更には、「資本主義を傷つけない範囲内で」、大きな限界がある。
 もっともエリートは大勢いる必要はないんで、男女でなく、貧乏と金持ちという不平等が広がれば、貧しい人たちの多数派としての男女平等の制度化はできるかもしれない。そんなのできてもしょうがないけど。

 ところが、運動が国家権力を手に入れられれば、たとえば法律で一切の残業を禁止する、とか会社の重役は同性では6割までしかなれない(男の重役は10人中6人まで)、とか決められれば、制度の変更の限界も違って来ます。
 この方向性を持っていると男女が関わる制度は根本的に変わる。


 そんなことを考えて、まだ、話してないことが、っていうか、話が込み入るんで削った話題があることに気づきました。

 人の関係ってなんだろう、国家が介入してくる「関係」ってなんだろう。

 前の本では、人の関係は生産関係で規定されているんだ、目にみえない経済の仕組みが大切なんだ、と強調して終わってしまいました。

 それで「今」の分析はすむけど、それだけだとこれからの社会の変更がどうも考えづらい。運動をしたらどんなふうになって社会は変わるのか。

 運動のアピールの意味は、02年5月発売「光の国のダンサー」をご覧ください。

 で、次の本の宣伝です。
 次は「人と人との関係」「人と国家との関係」について。せめて「読める」日本語で。
 僕にも、もう少し生きる理由があるようです。


Q4
「〈自由〉を探した靴」、宮沢賢治を読むような気分で読みました。しかし、そんな純な精神が220ページ以下で破綻している気がします。著者には著者なりの考えがあるとは思いますが。
                                (越川様より)

A4

 「規範が大事」部分のことと思います。ご指摘の趣旨は分かる気がします。私としても他の大部分の箇所は女主人公と友だちづきあいで書いてたところ、ここだけは世間に怒って書いてた、っていうか。こういうこと感じて言うから昔っからアナーキストだと思われないんですよね。
 まあ、政治的な理由で(?)論議への深入りはやめたいと思います。
 一言余計に付け加えれば、破綻と知ってもあえて書くところに、自分の立場の持続の元があるんだと思っています。

 また、「光のーー」の中の記述で、バイクのときは「ドライブ」とはいわず「ライディング」というそうです。ありがとうございました。(なお、Oという町はやはり大森です。)


ご感想  なんか、「70年」から翼竜がやってきて、頭の上をギャオーギャオーといいながら飛び回っているようだ。

RE感想  「失われた世界」(コナン・ドイル)ですね。
 それは書いた方でもよく分かります。今回(9月分)の今月の話題最後なんかもそうですね。読んだ人が困惑してしまう、というパターン。

 でも、それは状態としては時代に限らずそういうもので、昔私が高校で新聞部だったときも、社会科学研究会の後輩連中から「なあに、オジサン」みたいな目でみられてました。
 世の中、「社会領域」というのがありまして、行為の領域っていうか、そこが違うと恐竜に見られてしまう。まあしょうがないといえばしょうがない。
 それはやっぱ、どこの社会領域でもあることで、ビートルズの音楽が流れればオジサン連中は、なんだ今頃と思うし、若いもんは「へえ、メロディー違うけどいいじゃん」と思うかもしれません。
 なので、筆者としては心に留めないのです。

Q5  私は有賀喜左衛門の研究をしているが、主著「日本家族制度と小作制度」にはどのような評価をしているのか。
                                                 (武笠様より)
A5   ここでは簡略に答えの趣旨を記させていただきます。
 この書物はそれまでのエリート左翼の教条主義・観念的的な戦前の日本農村社会の分析に、正確・詳細・広範囲な調査にもとづくアンチテーゼを掲げたところに意義があるものと思っております。
 なんでわざわざエリート左翼というかというと、今でもいる、自分が偉いと思って幼稚なデマを続けている層との比較をしてもらって、その馬鹿らしさ加減を推測してもらおうと思ったからです。
 でも、やはり今でもいるわけですが、今の注意深いサラリーマンは自分の生活と同僚の生活を知っている。それは戦前、有賀氏が調査をした対象者が自分の農村の事情を知っているように知っているわけです。

 さて、そこで、じゃあ有賀氏が行ったことはどういうことか、というと、現代サラリーマンの生活の提示ではないか。
 それは、実に大切な努力だけれど、しかも過ぎ去った日本の農村の事実を広範囲に記録するというのは、まことに価値のあることだけれども、それ以上のものではない、とすれば、それは生活の渦中にある人間にとっては、「ただの常識を表現しただけ」といわれても仕方がないと思います。

 ここで当然に反論されるわけで、なにをいっているんだ、有賀はその中から日本社会を縦断する《同族団》と表現される集団原理を明らかにしたのだ、ということです。
 この表現の正確さの程度については、研究者により議論は分かれるのだと思いますが、100字で述べよ、くらいのレベルなら、武笠教授も70点くらいはくれるでしょう。

 で、話はここからで、じゃあ、集団の原理とはなにか、ということです。
 有賀はこれを民族固有の性格と断じてしまいました。と、読めますからしょうがありません。
 しかし有賀が詳細に研究したのはせいぜい明治までの想像力に基づくものです。これは、なんとも飛躍です。
 それは行為論が基礎にならなければただの仮説に過ぎない。あるいは、やはり注意深い人間の個人生活からきた常識の表現に過ぎない。だいたい、そんな綿々たる民族的性格のうち、たった数十年後の今、都市東京に残っているのはなんなのか。
 いや、別に論争する気はないのですが、かくて、日本のイエ論争について、事実の生活者的認識ではウェーバー系列の喜多野精一には勝つけれども、私にはトータルな社会認識のもとで作った喜多野理論のほうが意味がある、というわけです。


 でも、これは一般論として大きな問題です。
 多くの社会学者は、「実証的」といいまして、現実の社会を研究しているわけですが、ここで同じ事をしているからです。
 何をしているかというと、まず、
A 目的=(歴史的)社会事象の研究
  
B 過程=実証的な調査
 
C 結論=根拠不明
 
 というパターンをとっている。

 やはり(歴史的)社会事象に焦点を当てた研究というのは、一見当たり前だし、さらに社会学研究者には2見も3見も当然だと思うはずですが、私にはどうもそうとは思えない。
 それでは常識を集大成した、客観主義的な把握しか出来ない。
 客観的がなにが悪いか、ということですが、それでは、だからどうする、という知識は入手できない。
 客観的に社会事象はこうなっている、という結論からはそれがでてこない。
 もちろん、研究者は論文の結論としてはなんとか「出している」わけなんだけれども、それは、根拠不明にしかならない。
 
 私などは、この結論の根拠の解明の方が、全人々的に大事な気がするのですが、なんでこの根拠の解明をほっておくんだろうと思います。もちろん誰かがやれば済むことですが、誰一人やったことはない。いつも結論は同じ。「常識」に頼るだけ。そんなのは現実を知っている人間には、なんの役にも立たない研究です。
  
 スローガン的にいえば、社会事象は、未来的に解明されるべきだと思うんですよね。
 過去どうなってきたから、ということがどれだけ未来的に意味があるか、そこでは社会事象はトータルに、ではなく、限定的にさえ把握されるべきだと思うのです。
 

Q6  ベイシティキャットでは「情報の事実の認知」としつこいが、なぜ「情報の認知」ではないのか。事実とは何か。われわれはあるニュースが現実に存在したなどと本当には知るわけはないではないか。
                                 (越川様)
A6  いつもありがとうございます。
 さて、まず事実ですが、ある他人の話の要素が現実に存在したかどうかはわかるものではありません。
 それにもかかわらず、たとえばO157の話や狂牛病の話がわれわれには意味がある場合もあります(ない場合もあります)。ここで、われわれに意味のある場合が事実です。同じ狂牛病のニュースでも、ある者には事実であり、ある者にはタワ言です。
 縮めて言えば、それを将来の環境要因として認識するかどうかです。
 だから、正しく言えば「情報の中の事実部分の認知」ではなくて、「情報を受けてそれを行為者が外界に生じうる事実として解釈する場合の認知」ということでしょう。まあ、本当にほんとかどうかはどうでもいいのです。
 じゃあ、なぜそういうふうに正しく言わないかというと、ごちゃごちゃするから、という、いたってシンプルな理由。
 でも、図式的には、情報といっても、たとえば電車の中学生の「昨日、ウチの母ちゃんがオレのことをバカっていった」という情報は、隣りの中年男には、
1 うるさいから黙れ。
2 子供っぽくてかわいいからもっとしゃべれ。
3 ほんとか。そういえばオマエ、バカみたいだな。
等々の意味があるものです。
 ここで1と2における中学生の言葉は、情報ではありますが、中年男にとっては事実の認知ではありません。中学生の情報は、その現実的存在が云々されるまでは、「づしょあfksjkjljfsぁ」という言葉と同様に(キーボード上で指をくちゃくちゃやっただけ)意味がないのです。
 中年男が次にこの中学生と対応するときは、情報の外形的な認知、単に「うるさい」やら「子供っぽい」だけが基礎となる。
 ところで3はというと、中年男が次にその中学生と対応するときは、さっきの情報の「事実内容」が基礎となって、「『母ちゃんが言うように』お前バカだな」ということになる。
 だから、「情報の中で事実としての情報の認知」っていうか、そういう意味なのですが。







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